ながら運転の危険性を注意の心理学から考えてみた

テレビやラジオで、時々スマホを片手にしてのながら運転の事故があった時に、専門家に話を聞くことがあるのだが、聞いていて満足できることはまずない。もちろん話を聞く専門家の選択に問題があるのかもしれないが、それよりも認知心理学についての知識があまりなさそうな人ばかりなのがもっとも大きな原因だと感じる。

ながら運転の危険な原因はいくつかある。そもそも手にスマホを持っていて運転に支障がある場合がある。ただ、この場合は手にペットボトルを持ちながらの運転でも当てはまる危険性でもある。手元のスマホの方に視点が行っているよそ見も危ない。だが、どこを向こうがよそ見が危ないのは誰でも分かる。やはり、ここは注意についての心理学的な説明をしてもらいたいものだ。

それで気になって、ネットで注意について調べてもあまり手頃なのが出てこない。それどころか、 あらためて調べて再認識したのだが、日本には認知心理学についての標準的な知識を解説した教科書的な本そのものが少ない(下手すると片手で数えられる程度)。1

そこで、ここで注意の心理学についての基礎的な説明を書こうかなと思う。

そもそも注意とは何か?

まずは簡潔な説明

いま手元にある、2011年に出た認知心理学についての英語の教科書google:Cognitive Psychology EXPERIENCE THIRD EDITION E. Bruce Goldsteinのp.82にある注意の簡潔な説明から引用しよう。

attention—the ability to focus on specific stimuli or locations (訳;注意ー特定の刺激や場所に焦点を当てる能力)

こんなのわざわざ教科書から説明されなくても分かるよ〜と思っているあなた!甘いです。

ここで重要なのは「特定の刺激や場所」の部分だ。注意というと、スポットライトのようにある場所に注目することだと思っている人は多い。そういうこともあるが、必ずしもそうではない。

心理学の有名な実験に、数人がボールで遊んでいる映像を見せてパスの回数を数えさせる課題をさせたのだが、その動画は途中でゴリラの着ぐるみが横切るのだが、課題に夢中でそれに気づかない人がいた。明らかに視覚範囲にはゴリラが目に入ったはずでも、課題に夢中だと気づけないのだ。つまり注意とは、スポットライトのようにある場所に注目する能力では必ずしもない、ということだ。

ただ、この説明だと簡潔すぎる点があり、記憶の中のものに注意を向ける場合が含まれていない感じがする。

長いけど正確な説明

もう一つ持っている2012年の英語の認知心理学の教科書google: Cognitive Psychology 6 EDITION ROBERT J. STERNBERG KARIN STERNBERGのp.137からも引用してみよう。

Attention is the means by which we actively process a limited amount of information from the enormous amount of information available through our senses, our stored memories, and our other cognitive processes

長いので意訳すると、感覚や記憶にある大量の情報の中から限られた量の情報をすぐに処理できるようにすることかな?activelyが訳しづらいなあ。正直、定義としては分かりにくいけど正確ではある。

注意にはどんな特徴があるのか?

まずはgoogle:Working Memory and Attention A Conceptual Analysis and Review Klaus Oberauerから引用しよう。

One definition of attention characterizes it as a limited resource for information processing. Another concept of attention is as a process of (or mechanism for) selection of information to be processed with priority.

訳;ある定義では、情報処理における限られた容量として注意を特徴づけている。注意の別な考え方では、優先して処理される情報の選択のための過程(メカニズム)を特徴として挙げている。

論文では、この2つの定義をAttention as a Resource2とAttention as Selectionとして論じている。これらの特徴は、google:Cognitive Psychology EXPERIENCE THIRD EDITION E Bruce Goldsteinでは、divided attention(分割的注意;分けられた注意)とselective attention(選択的注意)して説明されているのと同じで、標準的な論じ方だ。

どこに注意を向ける?選択的注意

注意とは特定の何かに焦点を当てることだが、この特徴に焦点を当てた時には、特に選択的注意と呼ばれる。

選択的注意の特性は、そのフィルタリング機能にある。つまり、多くの情報の中から特定の情報を選びだして注意を払うことだ。心理学ではカクテルパーティー効果として知られる現象があり、あちこちから声や音がする騒がしいパーティ会場の中でも、目的となる会話だけが聞こえてくる現象を言う。これは必ずしも目の前の会話相手の声だけでなく、どこかで言われている自分の悪口が聞こえてくるようなこともある。

要するに、感覚としては雑多な情報が入ってきてても、その中から特定の情報だけに選択的に注意が向けられているのだ。実は気づいてないだけで、注意を向けていない情報の影響も受けているのだが、それはここで語ることではない。

どのくらい注意を向ける?分割的注意

注意は一つにしか向けられない訳ではなく、複数に注意を払うこともできる。たとえば、宿題をしながら親の足音にも気を配るような経験がある人はいるかもしれない。心理学ではこうした複数の課題を課す実験も行われており、多重課題実験と呼ばれる。

経験がある人なら分かると思うが、複数に注意を払うのは大変だ。人が注意を払える容量には限界があるのだ。しかも、注意は複数に均等に払われる訳ではなく、例えば難しい課題を解くときに夢中になると、他に注意が向きにくくなる。

つまり、注意には決められた容量(リソース)があって、それがいくつかに適宜に配分されることになる。この特徴に注目した場合、分割的注意と呼ばれる。疲れている時などは、そもそもの注意の容量(リソース)が減ってしまって、あまり物事に注意を向けられないことがある。

注意については他にもストループ効果や変化盲など挙げるべき現象もあり、特に二重過程説との関わりは重要だが、切りがないのでここまで。

ながら運転はなぜ危険か?

ここまでの説明で、なぜスマホをやりながらの運転が危険かは十分に分かる。

ながら運転をする人は自分は注意を払ってるから平気だと思っているのだろうが、それが間違っている。まず注意には容量があるので、別のことを同時にしてる時点で注意が分割されてしまっている。目の前をゴリラが横切っても気づかない時もあるぐらいなことをお忘れなく。

しかも、注意の配分や選択も本人が思っているほどに自由にできる訳ではなく、何かのきっかけでついスマホに注意が集中してしまう事態は避けられない。どこかで他人のする自分の悪口が気になって目の前の相手の会話に注意できなくなるように、スマホからの気になる知らせの最中に前の車がとっくに停車してるかもしれない。

ながら運転をついしてしまう原因には、自分は他の人とは違うとして自分の能力を過大視する認知バイアスもあるかもしれない。しかし、それが間違っていることを科学的研究は教えてくれる。


  1. そういえば、20年近く前の学生時代に、私は心理学方面が充実してる大学に通っていたが、それでも認知心理学についてきちんと教えてくれるのが外国人の先生による英語の授業しかなくて、リスニング苦手なのに…と思いながら履修した覚えがある。その時と比べても、状況はあまり改善されていない。

  2. Resourceは認知心理学だけでなく、認知科学全般で重要な用語だが、案外訳しづらい。直訳だと資源だが、これだとよく分からない。ここでは容量と意訳したが、これだとcapacityと区別がつかないのが欠点。リソースとカタカナ語で書くのが穏当だが、それはカタカナ語を連発する頭の悪いビジネスマンや政治家みたいで悔しい。

最近読んだネットですぐ手に入るお勧め論文

認知科学については、今でも色々と読んだり考えたりはしているのだが、自分の興味と日本での世間一般の認知科学について知識との差が大きすぎて、何を書けばいいのかよく分からない。実際のところ、最近このブログでよく読まれてるのは、未だに生成文法認知言語学の入門記事だったりする(十年近く前に書いた記事なのに)。

かと言って、このブログを放置状態にするのも何なので、そこで比較的最近読んだ面白かった日本語の学術論文(すべてネットでpdfが手に入る)を紹介してみます。

山泉実「言語学の理論的研究を阻害する諸バイアス 」

ここ最近読んだ論文の中では、google:山泉実 言語学の理論的研究を阻害する諸バイアスは断トツに面白かったし、日本語の論文でここまで衝撃を受けたものはもうずっとなかったと思う。

生成文法認知言語学などの理論言語学については、自分の認知科学への興味の関係もあって、たまにネットで論文を手に入れて読むことはある。理論言語学については、近年(ここ十年ぐらい)に読んだ日本語の論文では、ピダハン論争や進化言語学の論文以外ではあまり面白いと思うものは少なかったが、別に私は言語学の専門家ではないし、気にしてはいなかった。しかし、この論文を読んで、専門の言語学者でも最近の理論言語学に進展がないことを指摘しているのに、衝撃を受けた。

正直、日本の認知言語学の論文の大半は面白くない(誰かの分析をなぞってるだけ)のは元から知っていた。ミニマリストプログラムが進化学者向けの研究プログラムで、言語学者向けではないことも知っていた1。文法性判断の曖昧さの問題も知らなくもなかった。しかし、それらから理論言語学が停滞してるとはっきり結論付けられるのは、門外漢の私でもショックを受けた。

ただ、この衝撃的な論文も日本の専門の言語学者にはほとんど影響を与えないんだろあなぁ〜…と予測せざるを得ない。だって、多くの言語学者はこの結論を真に受けたら仕事できなくなっちゃうよね。むしろ、この内容なら英語で書く方がまだ読まれるかもしれないが、英語圏の理論言語学は(五十歩百歩感もあれど)もう少しマシな気もする。

つい最近までの理論言語学の展開については、google:Stefan Müller Grammatical theory From transformational grammar to constraint-based approaches. Second revised and extended editionがお勧め。私の勝手な予測では、これからの理論言語学は統計的になるか(構文も込みで)lexicalになるか辺りが生産的な方向かな…と思う。

モハーチ ゲルゲイ「薬物効果のループ」

この前の記事で、新しい唯物論存在論的転回に触れたが、これらの考え方を用いた良質の人類学の論文がネットで手に入る。google:モハーチ ゲルゲイ薬物効果のループ 西ハンガリーにおける臨床試験の現場からは、薬の治験が実際にどのように行なわれているかを追った医療人類学者の試みが描かれている。

薬の治験では無作為化対照試験(Randomized Controlled Trial; RCT)という、統計的に厳密な方法が使われているが、それが現実にどのように実施されているかをフィールドワークの成果を元に分析している。科学的な厳密な手法と、実際に治験に参加してもらって薬を正しく飲んでもらう現場の努力が対照的な形で描かれていて、とても興味深い。日本の懐疑主義者の(内容の薄い)エビデンスベース論よりも、これを読む方が得られるものは多い。

論文中で直接に参照されているのは存在論的転回で有名なストラザーンだけだが、様々なアクターがネットワークを形作っている感じは新しい唯物論的なラトゥールを思わせる。

ただ、自然と文化の二項対立への批判は理解できなくはないが、その批判自体が文化の側からなされているし、そもそも人類学そのものが自然人類学(特に進化)と文化人類学に二分している状況を考えると、扱いは慎重にすべきと思う。むしろ、文脈によって自然と文化の境界が強化されたり消え去ったりする具体的な過程を描き出す方が、一方に加担しないで済むはずでは…

川島正樹『アメリカ大衆音楽と「人種」の陰影 』

別の調べ物をしているときにたまたま見つけて読んでみたらのが、google:川島正樹 アメリカ大衆音楽と「人種」の陰影 ソウル,カントリー,そしてフォークをめぐる歴史的素描の試みだ。アメリカ文化論には元々は興味があったので試しに読んでみたら、思ってた以上に面白かった。

アメリカでは、カントリーは白人のものブルースは黒人のもの、という考え方が未だに根深く残っているのはなぜかを歴史的に追った論文。本来はそんな簡単な分け方ができるものではなく、現場では交流もあったはずなのに、ある種の象徴として文化的に表象されていく複雑な歴史的な過程が描かれていて、とても面白く読める。

私はアメリカの音楽は、ラジオでならよく聞いているがそこまで詳しくはないが、興味深く読めた。あぁでも、ミンストレルショーの話とか、ディスコミュージックは堕落したソウルミュージックだとか、ラジオで聞いたことのある話もあったかな。ともかく、このレベルの読み物がネットですぐ読めるなんて、現代はすごい時代だなぁ〜と思う(ただし宝の持ち腐れ感もあるが)。


  1. google:黒田成幸 数学と生成文法でも指摘されているように、ミニマリストプログラムは数学基礎論とのアナロジーでも理解できる。ならば、数学と数学基礎論とが別々に研究可能なように、文法研究とミニマリストプログラムとを別々に研究できると考えても良さそうではある。ただし、ジャッケンドフのように併合(マージ)を強烈に批判する学者もいるので、ミニマリストプログラムを文法基礎論みたいに捉えてよいのかは議論の余地がある。

新しい唯物論と認知科学における身体化は無関連ではない

世界はそもそもどうなっているかという真のontologyを彼が開きます。我々は物(を支える技術)と無関連に生きられない。加工品はそれをもたらす加工品と人の連鎖(ラトゥール)の通時的蓄積というontologyに支えられ、表象は表象と人の連鎖(スペルベル)の通時的蓄積というontologyに支えられるとする人類学の転回を先取りしていました。

以上は連載12回:存在論的転回は社会学的構築主義を爆砕。言語論的転回は実は存在しないよりの引用だが、これを始めに読んだ時に、存在論的転回と新しい唯物論(物質主義)とを混同していると思った。スペルベル(認知科学では関連性理論で有名)への言及は何かの勘違いだと思うが、ラトゥールへの言及とこの引用の直前の説明を読むと、これは新しい唯物論のことじゃないかと思った。

存在論転回と新しい唯物論は別物では?

私の理解では、存在論的転回とはストラザーンやカストロに由来する流れで、新しい唯物論はラトゥールやフーコーフェミニズムのバラッドに由来する流れで、一応別物だと思っていた(前の記述での言及はこれを前提にしてた)。英語の論文も多少確認してみたが多分これが正しいと思うのだが、ラトゥールは(およびドゥルーズも)存在論的転回にも関わりがあるとする論文もあり、存在論的転回と新しい唯物論との関係は私にはどうもよく分からない。

新しい唯物論については私のキンドルタブレットに入れてあるお気に入りの論文があるので、それを示しておきます。 * google:統治性研究はインフラにいかにアプローチできるか? 西川純司 * google:書評 Karen Michelle Barad Meeting The Universe Halfway : Quantum Physics and The Entanglement of Matter and Meaning 小川 歩人

それから、存在論的転回についても良いと思った論文があるので、それも書いておきます。 * google:人類学の存在論的転回における概念創造という方法の条件と問題 相原健志

新しい唯物論は実は認知科学と関連がある

あまり気づいてる人は多くないが、新しい唯物論認知科学は無関係ではない。新しい唯物論の考え方は認知科学で人類学者が提示した状況的認知や分散認知の考え方に近い。代表的な人類学者であるハッチンスの代表作"Cognition in the wild"は洋書を持ってるが、そこではラトゥールへの肯定的言及もある。この本が出版された二十世紀末は認知を頭の中から外へと拡張する考え方が次々出ていた頃で、ハッチンスの著作もその代表的な一つである。ちなみに、同時期にはフェミニストのカレン・バラッドが後に代表的な著作となる新しい唯物論についての論文を書いている。

ラトゥールとハッチンスを関連付けた英語の論文も見つけたので、それもリンクしておきます→google:Rasmus Hoffmann Birk From social to socio-material pathologies: on Latour, subjectivity and materiality

不毛なradical enactivismから脱しよう

次の引用は本来はradical enactivism批判の論文で、その文脈の記事で参照する予定だったが、そこにハッチンスに触れてる個所があるので、そこから引用(孫引き)しておきます。

Beyond stating this proposal [of the Natural Origins of Content — T.K.], however, [H&M — T.K.] do not elaborate and support it with descriptions, analyses, or explanatory models of cognitive phenomena involving social learning, social cognition, and language. Instead, they switch to fending off critics [Hutto & Myin, 2017, p. 140 — T.K.] Although they claim to be doing naturalistic philosophy and deplore "the general tendency of philosophers—especially those in some wings of the analytic tradition—to assume that the essence of phenomena can be investigated independently of science" [Hutto & Myin, 2017, p. 276 — T.K.]—they do not draw from the rich cognitive science literature on how sociocultural practices and public symbol systems configure cognition. (I have in mind work by Lev Vygotsky, Merlin Donald, and Edwin Hutchins.) (Thompson, 2018, citations edited for consistency)

google:Tomasz Korbak Unsupervised Learning and the Natural Origins of Contentからの引用だ。radical enactivismの最近の代表的な論者とされているHutto&Myinが認知における社会的な要素を強調しておきながら、認知科学における社会-文化的アプローチの古典を参照していないことに怒っている内容になっている。そして最も皮肉なことは、これがenactivismの古典「身体化された心」をヴァレラと共著したenactivismの祖の一人とも言えるエヴァン・トンプソンに言われていることだ。

私も最近のradical enactivismが不毛な上に、認知科学に不勉強なことに怒っているので、radical enactivism批判論を紹介する記事は書くつもりではいる。ただ、日本の認知科学を巡る遅れ具合を考えるとそんな記事を書くのが虚しくも思えてイマイチやる気が出ないのだが…。

私はこれからの認知科学は、内的メカニズムを目指して統計的な手法を駆使する道と、外的なメカニズムを明らかにする身体化的な流れとが補完的な関係として進んでいくのが理想的だと思うのだ、未だに還元主義批判や表象主義批判が盛んな学者が多いことを考えると、その域にはなかなか達しないんだろんなぁ〜と感じる。