新しい唯物論と認知科学における身体化は無関連ではない

世界はそもそもどうなっているかという真のontologyを彼が開きます。我々は物(を支える技術)と無関連に生きられない。加工品はそれをもたらす加工品と人の連鎖(ラトゥール)の通時的蓄積というontologyに支えられ、表象は表象と人の連鎖(スペルベル)の通時的蓄積というontologyに支えられるとする人類学の転回を先取りしていました。

以上は連載12回:存在論的転回は社会学的構築主義を爆砕。言語論的転回は実は存在しないよりの引用だが、これを始めに読んだ時に、存在論的転回と新しい唯物論(物質主義)とを混同していると思った。スペルベル(認知科学では関連性理論で有名)への言及は何かの勘違いだと思うが、ラトゥールへの言及とこの引用の直前の説明を読むと、これは新しい唯物論のことじゃないかと思った。

存在論転回と新しい唯物論は別物では?

私の理解では、存在論的転回とはストラザーンやカストロに由来する流れで、新しい唯物論はラトゥールやフーコーフェミニズムのバラッドに由来する流れで、一応別物だと思っていた(前の記述での言及はこれを前提にしてた)。英語の論文も多少確認してみたが多分これが正しいと思うのだが、ラトゥールは(およびドゥルーズも)存在論的転回にも関わりがあるとする論文もあり、存在論的転回と新しい唯物論との関係は私にはどうもよく分からない。

新しい唯物論については私のキンドルタブレットに入れてあるお気に入りの論文があるので、それを示しておきます。 * google:統治性研究はインフラにいかにアプローチできるか? 西川純司 * google:書評 Karen Michelle Barad Meeting The Universe Halfway : Quantum Physics and The Entanglement of Matter and Meaning 小川 歩人

それから、存在論的転回についても良いと思った論文があるので、それも書いておきます。 * google:人類学の存在論的転回における概念創造という方法の条件と問題 相原健志

新しい唯物論は実は認知科学と関連がある

あまり気づいてる人は多くないが、新しい唯物論認知科学は無関係ではない。新しい唯物論の考え方は認知科学で人類学者が提示した状況的認知や分散認知の考え方に近い。代表的な人類学者であるハッチンスの代表作"Cognition in the wild"は洋書を持ってるが、そこではラトゥールへの肯定的言及もある。この本が出版された二十世紀末は認知を頭の中から外へと拡張する考え方が次々出ていた頃で、ハッチンスの著作もその代表的な一つである。ちなみに、同時期にはフェミニストのカレン・バラッドが後に代表的な著作となる新しい唯物論についての論文を書いている。

ラトゥールとハッチンスを関連付けた英語の論文も見つけたので、それもリンクしておきます→google:Rasmus Hoffmann Birk From social to socio-material pathologies: on Latour, subjectivity and materiality

不毛なradical enactivismから脱しよう

次の引用は本来はradical enactivism批判の論文で、その文脈の記事で参照する予定だったが、そこにハッチンスに触れてる個所があるので、そこから引用(孫引き)しておきます。

Beyond stating this proposal [of the Natural Origins of Content — T.K.], however, [H&M — T.K.] do not elaborate and support it with descriptions, analyses, or explanatory models of cognitive phenomena involving social learning, social cognition, and language. Instead, they switch to fending off critics [Hutto & Myin, 2017, p. 140 — T.K.] Although they claim to be doing naturalistic philosophy and deplore "the general tendency of philosophers—especially those in some wings of the analytic tradition—to assume that the essence of phenomena can be investigated independently of science" [Hutto & Myin, 2017, p. 276 — T.K.]—they do not draw from the rich cognitive science literature on how sociocultural practices and public symbol systems configure cognition. (I have in mind work by Lev Vygotsky, Merlin Donald, and Edwin Hutchins.) (Thompson, 2018, citations edited for consistency)

google:Tomasz Korbak Unsupervised Learning and the Natural Origins of Contentからの引用だ。radical enactivismの最近の代表的な論者とされているHutto&Myinが認知における社会的な要素を強調しておきながら、認知科学における社会-文化的アプローチの古典を参照していないことに怒っている内容になっている。そして最も皮肉なことは、これがenactivismの古典「身体化された心」をヴァレラと共著したenactivismの祖の一人とも言えるエヴァン・トンプソンに言われていることだ。

私も最近のradical enactivismが不毛な上に、認知科学に不勉強なことに怒っているので、radical enactivism批判論を紹介する記事は書くつもりではいる。ただ、日本の認知科学を巡る遅れ具合を考えるとそんな記事を書くのが虚しくも思えてイマイチやる気が出ないのだが…。

私はこれからの認知科学は、内的メカニズムを目指して統計的な手法を駆使する道と、外的なメカニズムを明らかにする身体化的な流れとが補完的な関係として進んでいくのが理想的だと思うのだ、未だに還元主義批判や表象主義批判が盛んな学者が多いことを考えると、その域にはなかなか達しないんだろんなぁ〜と感じる。