私にとって論文漁りはもはや趣味と習慣と化してるので、興味を持って調べている話題は幾つかなくもない。でもまぁ、過去にもこのブログで記事にしてない興味を持っていた話題はいくらでもあった。文化心理学だって学生時代から知っていたにも関わらず、このブログに書いたのはこの前が初めてだと思う。

radical enactivism批判については、未だに書こうか迷っている。(代表的学者の)Hutto&Myin批判の論文は手許のキンドルに常駐で入れてるほど、いくつかお気に入りがある。ただ、もはやこれ以上は広がりを持てそうにないが熱心な信者は相変わらず多いカルトとなりつつあるradical enactivismについて、批判が目的とはいえ公正に説明をしないといけない事自体が面倒くさい。せめて計算主義批判への反論ぐらいは記事にすべきかなぁ

ここしばらくずっと調べて続けているのは、意味論的情報(semantic information)だ。表象論や予測符号化とも関連があって個人的には面白いと思っているが、英語圏のその界隈でも広く話題になってるとはとても言えない。統計や情報とも結びついた興味深い話題だと個人的には思うが、記事にして書くほどか?はよく分からない。たぶん、このままだとお蔵入りになりそう。

もう一つ、これはつい最近になって調べ始めたのが、アブダクション(abduction)と最良の説明への推論(inference to the best explaine)。アブダクションと言っても宇宙人に誘拐されたみたいな話(そういう語義もある)ではなくて、プラグマティズムの提唱者で有名なパースが提示したことで有名な概念の方だ。パースは私を哲学に目覚めさせた(正確には物事を論理的に徹底して考えていいのだと気づかせてくれた)恩人なので、たまに定期的に調べたくなる対象ではある。

ただし、今回はパースきっかけではなく、科学的推論きっかけでアブダクションを知って調べるようになった。科学は(論理実証主義の言うように)純粋な客観でもなければ、(社会構築主義の言うように)全てが主観なわけでもないことをいつかちゃんと説明しよう…と思っていて、アブダクションはそこにも関わりがある。

アブダクションについて調べていたら、アブダクションが最良の説明への推論と関わりがあると分かった。いくつか論文を読んだら、内容がよくまとまっているお気に入りの論文が一本見つかり満足してるところ。でも、このテーマはもう少し広がりそうなので、まだ調べている。

こういう科学的認識(仮にこう呼ぶ)の話は、私が(認知科学は科学じゃない説への反発から)個人的にずっと興味を持っている認知科学の基礎にも関わりがあるが、他方で心の構造を理解するにも多く寄与する。例えば、クワインやセラーズの哲学は科学的認識の話でもあれば、もっと一般的な認識(人は世界をどう理解するのか)の話でもある。

だから、私にとって(主に認知)科学と哲学とは別々のものではない。一方が他方の基礎になる訳でもなく、一方に他方が還元できる訳でもない。

楽観主義バイアスは人類に共通の認知バイアスか?

少し前に、ここのブログの記事である論文に付属していた認知バイアス小辞典を紹介した。そこには有名なバイアスも多く説明されていたが、次の認知バイアスもよく見かける有名なものだ。

楽観主義バイアス:好ましい出来事の確率を過大に見積もり、嫌な出来事の確率を過小に見積もる傾向

Optimism bias: the tendency to overestimate the probability of positive events and underestimate the probability of negative events (O’Sullivan, 2015).
google:Cognitive biases Section to be published in the Encyclopedia of Behavioral Neuroscience (Hans)Korteling Alexander Toetより

楽観主義バイアスはネットでも様々な文献でもよく見かける代表的な認知バイアスであり、そこに問題はないように思われる。楽観主義バイアスは、当たり前のように世界中どこでも見られる人類共通の認知バイアスだと広く信じられている。

楽観主義バイアスについての最近の研究例

この記事を書こうとして、ネットで調べていて見つけたある心理学論文(2015年)があったので、そこから引用しよう。

自己楽観バイアスは比較的頑健な現象として知られているが,質問の内容等によっては必ずしも観測されないことが示されたことは消極的ではあるが発見といえなくもない。
google:長瀬勝彦 自己楽観バイアスと時間割引のまとめ より

この論文で言われている自己楽観バイアスは、上で説明した楽観主義バイアスよりももう少し意味が広いが、それが含まれていることには変わりがない。この論文で、日本の学生を相手に行われた実験では(楽観主義バイアスを含む)自己楽観バイアスが見られなかったと言う。

こうした反証となる心理学実験の成果が、発見なのか?勘違いなのか?実験上の不備なのか?を評価するのは実は難しいのだが、その問題は脇に置く。たとえこの実験が発見だったと好意的に捉えたとしても、それは実のところ再発見でしかない。

この論文が参照してるレビュー論文では楽観主義バイアスを比較的頑強な現象としていたようだ。だが、それはレビュー論文の書かれた2004年の時点でも、明らかな不勉強でしかない。

心理学におけるWEIRD問題とは何か?

最近になって、心理学で問題になっているのにWEIRDがある。心理学実験では、実験の対象となる被験者が必要だが、前節で紹介した論文でも見られたように、その手軽さからか大学生が用いられることが多い。

その結果、心理学実験のほとんどが大学生を対象とした研究ばかりになってしまっている。しかし、そうした大学生ばかりの研究成果を人間全体に一般化するのは正しいのだろうか?

私たちはこうした心理学のデータベースをWEIRDと呼んでいます.Western Educated Industrialized Rich Democratic Societies (西洋の,教育を受けた,工業化された,豊かな,民主主義社会の)の頭文字を取ったものです.心理学のデータベースは大部分がWEIRDサンプルに基づいて作られています.しかし,こうした人々から導かれる結論は,その他の人々から導かれる結論と同じなのでしょうか.
google:Steven Heine 心理学における多様性への挑戦:WEIRD研究の示唆と改善 p.64より

この論文でこう指摘してから、Steven Heineは実際の研究例を挙げている。最初に挙げられている研究例は、「工業化された社会とそれ以外の社会」での錯視の見え方の違いだ。この例は、私が学生時代に読んだリチャード・グレゴリーの本(たしか「インテリジェント・アイ」)にも書かれていた話題で、個人的にはちょっと懐かしい気分になる。ここから人類学の話に逸れることもできるが、それは我慢。

育った環境の違いによって錯視の見え方が違う例…の次に挙げられているのは、西洋社会と非西洋社会の例だ。そこで西洋と東洋の自己観の違いに触れられているが、ここでも私は学生時代に引き戻される。なぜなら、それは私が学生時代に知って一時夢中になった文化心理学が関わりを持っているからだ。

文化心理学と楽観主義バイアス

北山忍は(マーカスと共に)、特にアメリカと日本の心理学的な成果を比較しながら、西洋と東洋の自己観の違いを提示したことで、二十世紀末の欧米の社会心理学界では比較的に知られていた。そうした成果を基にして、心の文化的な要因を扱う文化心理学もその時期に勃興していった。

細かい説明はここでは省くが、参照されているそうした成果の一つに楽観主義バイアスもある。

Weinstein (1979) は、様々な出来事が自らに将来起きる可能性を推定させ、 アメリカ人の多くは楽観性のバイアスを示すことをみいだした。つまり彼らは、望ましい出来事 (e g. 昇進、長寿) は平均的他者と較べて自分により起こりやすいと感じているのに対して、 望ましくない出来事 (e. g. 癌、 失業) は自分には起こりにくいと感じている。これらの研究とは非常に対照的に、近年の比較文化的研究はこれらの効果の多くが日本をはじめとするアジアの諸国で起きないのみならず、しばしばこれらの効果はその方向が逆転し、自己高揚的というよりも自己批判的・卑下的傾向が起きることを示している。
google:北山忍 文化的自己観と心理的プロセス p.162より

この論文が出されたのが1994年だ。これはもちろん日本語の論文だが、同じような内容は英語でも書かれており、よく参照されたのはむしろそっちの方だ。二十世紀末の段階で、楽観主義バイアスには文化差があって一般化できないことは既に知られていた…はずだった。

見捨てられた楽観主義バイアスの文化差

二十一世紀に入ってしばらくするうちに、そうした心の文化差は軽視されていったように感じる。同時期に心の普遍性を訴える進化心理学が流行るようになったが、同時にその頃は進化心理学に証拠に基づかない怪しい話がだんだんと増えていったとも感じる。これが(20)00年代までの状態。

そして、2010年に既に紹介したWEIRD問題が書かれた論文が出されている。10年代は他にも、(科学から遠ざかった)進化心理学が批判され、脳の機能局在論が疑われ、心理学実験の再現性が問題となった。こうして並べてみると、00年代までの安易な研究前提が一斉に叩かれていたのだと感じる。

書評 ブリタニー・カイザー「告発 フェイスブックを揺るがした巨大スキャンダル」

告発 フェイスブックを揺るがした巨大スキャンダル (ハーパーコリンズ・ノンフィクション)

あのケンブリッジアナリティカで働いていた女性がその経験を描いた驚くべきノンフィクション

ブレグジットやトランプ当選に貢献した企業ケンブリッジアナリティカに、まさにその期間に働いていた若き女性がそこでの経験を描いたノンフィクション。

高い理念を持って入社した彼女が、自らの価値観とは異なる人々を支援する活動に巻き込まれ、そこから脱するまでがイキイキと描かれている。フィクションを読むようにスラスラと読めるが、これが事実であるのが驚きだ。ポストトゥルースやデータ産業に興味のある人はもちろん、単に面白い経験談を読みたい目的だけでもお勧めできる。

どんな内容?

イギリスのEU離脱やトランプの大統領当選に、とんでもない手法を使って貢献した企業…として有名になったケンブリッジアナリティカ。その手法を伺わせるところが、読み始めて間もなくのところであらわれる。

アレクサンダーは肩をすくめ、次のスライドをクリックしながら言った。
「コミュニケーションの究極の目的は、相手の行動を実際に変えることなのだから」
次のスライドには「行動させるコミュニケーション」とある。左右にふたつのビーチの画像があり、左側の画像には「パブリックビーチはここまで」と書かれた四角い白い看板が立っている。右側の画像には、鉄道の踏切に見られるようなあざやかな黄色い三角形の標識が立っている。そこに書かれているのは「注意!サメの目撃情報あり」。
はたしてどちらが効果的だろうか?滑稽なほどの違いがあった。
第二章 最初の一歩 より

ここは著者が入社前に聞いた説明だが、さらにもう少し後で出てくるコーラを売る戦略の説明と共に、ケンブリッジアナリティカをやり方を象徴的に示した箇所である。そこからうかがえるのは、行動を起こせるならどんな手法でも用いるのであり、データはそのために使われるのだ。

著者のケンブリッジアナリティカでの経験は、ダボス会議に行き・バノンに会い・いつの間にかトランプを援助する羽目になったりと、純粋に作品として読み応えがある。リベラルな彼女がどんどんそれに反する活動に巻き込まれていく過程は、よくできたフィクションを読んでるかのように引き込まれるが、これが事実に基づいているのはまさに驚きだ。

注意すべき点はある?

著者の経験はフィクションを読むかのように面白く読めてしまう。だが、中には意外な部分もある。彼女はどちらかというとケンブリッジアナリティカの営業担当だったので、技術的な面の記述にはあまり期待できない。数少ないある説明部分では、私には???だった。

実際に著者は、大統領選で用いられたマイクロマーケティング的な手法には、それに関わっていた最中には気づかずに、後から(営業向け説明会で)説明を受けて衝撃を受けている。著者はそれなりの重役な感じに見えたので意外。よって、ケンブリッジアナリティカの用いた手法については、著者が受けた説明が中心で彼女自身からは大した説明を期待できない。なので内情暴露としては核心に少し欠けるが、それでもそのポストトゥルースな説明は十分に衝撃的だ。

翻訳のタイトルのつけ方はどう考えても失敗。原題は「Targeted」で内容的にも関連深いターゲット広告を思わせるが、実際の告発者は別にいるのに「告発」の題名は誤解しか招かない(しかも告発者のクリストファー・ワイリーも別に本を書いてる)。内容の中心はケンブリッジアナリティカなのに、それがタイトルから分からないのは不親切でしかない。結果として、本当にこの本に興味を持っている人に届きにくくなっているのは、単にもったいない。

ケンブリッジアナリティカに興味のある人は当然ながら、単純に面白い作品を読みたい人にもお勧め。このタイプのノンフィクションを読み慣れてない私でも夢中で読めたので、堂々とお墨付きを与えられる。

軽い注釈

本当の告発者クリストファー・ワイリーの本(現時点で未邦訳)は、以下のリンク先での紹介を参照。

カイザーがデータのプライバシーを重視してるのに対して、ワイリーはマイクロマーケティング的な手法を問題視している。これはカイザーが営業担当、ワイリーが技術担当、というケンブリッジアナリティカでの役割を反映していると思われる。なので、できれば視点の違う両方を読む方がベストそうだ。

それから前から疑問に思っていた、馬鹿な差別主義者とも傲慢な新反動主義者ともどこか違う気がするバノンが何者なのか?は、この本を読んでも未だにあまり分からない。バノンの目的は人々の分断を深めることっぽいが、その動機がいまいち読めない(レーニン主義とかは言われるが)。

加速主義は資本主義の加速が元々の含意なので、バノンをそれと同じとするのも少しためらわれる。ただし、ニック・ランドには人工知能研究を加速させよ!と言ってる論考もあるので、私にも加速主義は把握しきれない(おそらく終末論の一種[終末を早めよ!]が穏当な理解か?)。

おまけの下らない独り言

ケンブリッジアナリティカについては元からそれなりに色々知ってはいた。だが、こうしてあらためて読んでみると、なかなかに発見もあっても面白かった。

やはり、認知科学に慣れた自分とは思考法が違うのがよく分かる。認知科学でもノーマンやサンスティーンのように人の行動をポジティブに変える方法を示してくれた学者は知っていた。だがそれに比べると、ここまで臆面もなく人の感情に訴えて行動を変える手法は衝撃的ではある。

性格のビックファイブモデルは学生時代に知っていた。既に認知科学好きだった私は、そんなのは誰かが適当に答えたアンケート調査の結果を統計的にグチャグチャに分析しただけでしかなくて、実験のような実体のある研究成果とは所詮は違う…と軽く馬鹿にしていた。しかし、その馬鹿にしてたビックファイブモデルをケンブリッジアナリティカが効果的に使ったのは、また別の意味でショックである。