ネットですぐ手に入る論文(エッセイ)をお薦めする(2021冬)

現在、ここに書きたい記事のアイデアはいくつかあるのだが、それをどう書けばいいのか?当分はまとまりそうにない。そこで今回は、比較的に最近よんだ、ネットですぐに手に入るお薦め論文(もちろん無料)を紹介してみます

これから紹介するのは、どれも論文とは言ってもほぼエッセイに近いので、特別な知識がなくとも誰でもだいたい読めます。手軽にダウンロードして読んでみてください(つまらなくても読むのやめればいいだけで損はしない)

原啓介「確率論の誘惑 — 世俗からの確率論入門」

原啓介「確率論の誘惑 — 世俗からの確率論入門」 [追記(2021.11.27)コメントの指摘でリンクを直しました。ありがとうございます]

正直なところ、このお薦め論文紹介の記事を書こうとした最も大きなきっかけは、この論文を見つけたことだ。自分はネットで論文検索はよくしているが、これは読んですぐにでも紹介したいと思った

これは今年(2021年)の市民講演会を元にした、タイトル通りに確率論入門である。もちろん、さすがに知識ゼロからの文字通りの入門ではないが、なんとなく確率とは何か?を知っている一般向けの内容としてはとても優れている

数式もいくつかあるが、それらは無視して分からない所は適当に読み飛ばしても、ある程度は読めるかもしれない。少なくとも後半にある人間原理の話題ぐらいは、確率チンプンカンプンでもまあまあ楽しめる気がする。確率に興味がある人なら、人間原理の他にも確率空間・主観的確率・ミーゼスといろいろな話題が、短めのエッセイにそれほどレベルを下げることなく分かりやすく書かれていて、素直にお薦めできる

すぐにでも紹介したいと思うほどにお気に入りなので、文句なんてないも同然だ。あえてひとつだけ挙げると、ケインズを主観的確率に含めるのは違うと思う。それだと、ケインズの確率論へのラムゼイの有名な批判の位置づけが分からなくなる。とはいえ、(ケインズを源とする)論理的確率の現在における位置づけは私にもよく分からないので、気にするほどのことではないのかもしれない

統計に少しでも興味や関わりのある人には、ぜひ読んでほしい。どうせ短めのエッセイですぐ読めるし、読んで損するとは思えない

佐藤郁哉「Syllabus とシラバスのあいだ─大学改革をめぐる実質化と形骸化のミスマネジメント・サイクルを越えて─」

社会学者の佐藤郁哉が書いた大学教育論や研究評価事業論についての論文は、ネット上にいくつかあがっている。その中から、佐藤郁哉らしさが出ていて読みやすいこの論文をお薦めしたい

私が二十年以上前の学生時代に、(認知科学を知るよりも前に)教育社会学に夢中になったことがある。佐藤郁哉はその頃に好きになった社会学者であり、もちろん代表作の暴走族研究は面白く読んだし、彼の調査法についての著作である「フィールドワーク」は文字通りの愛読書だった

ここまでは私の過去の話。で、少し前に大学論だか教養論やらについてネットで調べていたときに佐藤郁哉の新しい論文を見つけて、読んだ一つがここで紹介するものだ。これは大学のシラバスについての論文だが、単なる大学教育論を超えて日本的な組織論としても面白く、社会人も含めて広くお薦めできる

この論文で言われている和風の電話帳シラバスは私の学生時代に既にあったが、それはネットで見れる欧米のシラバスとはかなり違う。日本は流行りのシラバスなるものを表面的に導入(のふり)をして、お上の命で取り入れたものの日本の事情には合っていないのだが、さりとてやめることもできない…という日本的な組織のダメダメな所が描かれている

誰もが面白く読めるとまではいわないが、大学論だけでなく組織論としても興味深く、日本的な改革の駄目な実例の分析としてもためになる。安易な輸入や効率化を超えた戦略を考えるのに有効だろう

戸田山和久「感情って科学の概念なんだろうか」

戸田山和久は日本を代表する分析哲学者であり、最近は心理学者と組んで独自の概念工学の試みを行っていることで知られている。この論文は、心理学者を前にした講演が元になっており、(感情)心理学の哲学であると共に概念工学の一貫にもなっている

現在の科学哲学は、昔のような一般化された科学を対象とした哲学ではなく、個々の分野毎に分けられた個別科学の哲学が主流となっている。このブログでよく扱うのも新しめの認知科学の哲学ではあるが、日本の学者には現役の科学を相手にした個別科学の哲学を論じられる人は多いとは言えない。その中で戸田山和久の試みは貴重である

この論文では、心理学で扱う「感情」が素朴(folk)な概念に頼りがちな現状を指摘した上で、どうすれば「感情」を科学的に調べることができるのか?を、欧米で起こった論争を参考にしながら論じている。そこで、感情のカテゴリーに分ける試みとまとめる試みを見ているが、まさにこれが概念工学と関わりがあることが暗に示唆されている

現役の科学を対象として論ずる哲学者は、日本ではまだ珍しい。ましてや、オリジナルな議論をも提示できる戸田山和久の試みは見がいがある

尾崎俊介自己啓発本として読む 『ホール・アース・カタログ』」

このエッセイの著者は、近年は自己啓発本についての思想史的な研究を行なっており、個人的に注目している。これもそうした研究の一貫となる最新版である

「ホール・アース・カタログ」は、カウンターカルチャーの時代に聖典のように扱われた本である。これがどのような内容で、どのような文脈の中で出てきたのか?を説明している。カウンターカルチャー時代に現れたニューエイジエマソンからのアメリカの伝統から理解できると指摘しながら、一見すると単なるカタログであるはずの「ホール・アース・カタログ」がその中でどのように作られ受けいれられたのか?

だが、高度文明社会の只中に生まれ落ちた元ヒッピー/現ニューエイジャーの若者たちにとって、自然に帰ることはそう容易ではなかったはずである。 畑を作るにしても、家禽を飼うにしても、家を建てるにしても、その方法も分からなければ必要な道具も分からず、それらをどこで手に入れればよいかも分からない。知識と道具――彼らにとって切実なまでに必要だったのは、 この二つだった。
そしてまさにこの二つの必要を満たしたのが、WECだったのである。

尾崎俊介「自己啓発本として読む 『ホール・アース・カタログ』」」 p.160より

ソローの伝統から生まれた「ホール・アース・カタログ」から、現在のエコロジー思想や自然志向へとつながることになる。そして、ここにある(自然の中で)自力で生きる…とはSelf help(自己啓発)そのものだ

詳しくはエッセイを読んでもらうとして、もう少しだけ個人的な指摘をしておく。エッセイ本体ではカウンターカルチャーのボジティブな面が中心に描かれているが、私はカウンターカルチャーにはネガティブな変貌もあったと思う。それは自己啓発が他人を頼るな!のネオリベ思想に豹変し、カタログ文化が消費社会に取り込まれ、スピリチュアリズムは社会を変えない言い訳になった。ほぼ同時代に生まれた知能増幅(IA)や人工知能(AI)にも現在では似た変貌を感じる

最近の日本での話題を明瞭な議論に落とし込んでみる

日本にいると、右を見ても左を見てもどこを見ても議論が不明瞭なことにうんざりしてくる

議論ばかりしてても駄目だ!的なことを言う人をたまに見かけるけど、単なる言い合いを超える真っ当な議論がされてるのを、日本で聞くことなんて滅多にない。最近の論破ブームも、相手を屈服させたいだけのマウンティングにしか見えないので大嫌いだ(せめてディベートのルールぐらい守ってやれよ!)

例えば、強いAIを汎用AIと一緒にしたり、科学で意識の難しい問題が解ける、的な元々の定義を無視した話は多い。これがアフォーダンスオートポイエーシスのような元から定義の曖昧な言葉なら気にならない(正しい議論などはなから期待してない)。しかし、強いAIも意識の難しい問題もどちらも哲学者による論証が用意されているのに、それが無視されていることにはイラつきしかない1

これは日本での哲学が、所詮は哲学者の固有名詞や専門用語を並べた哲学史としてばかりに語られていて、未だに論証として論じられがたいことへの不満ではあるが、似た不満は日本のあっちこっちで感じる

「どうせ変わらないから選挙には行かなくていい」のか?

最近だと、「どうせ変わらないから選挙には行かなくていい」みたいな意見がネットで話題になっていた。正直、こういうその場の思いつきでしかない素朴な意見なんて(特にネトウヨが言っていて)よく聞くので、私は慣れてて気にならない。それより問題は、それに反発する人(主にリベラル)のべき論を超えない反応の方にガッカリした

どうせ何も変わらないから選挙に行かない…と思うのは自由だ。しかし、選挙は政治を変えるために行くのではなく、政治に責任を持つために行くものだ。例えば選挙の結果として何も変わらなかったとしても、投票率が高ければ皆が決めたこととして納得できるところがある。変えないことを選ぶことは重要である

もう選挙で決まった政権だから批判すべきではないのか?

更によく聞く勘違いは、「もう選挙で決まった政権だから文句を言うな!」という意見だ。これも選挙をそれだけで独立した行為としてしか見ていない証拠だ。正直、選挙に行ってない奴らは政治に意見する資格はないと思う。しかし、選挙に行ったなら政治に意見を言うのは自由だ。選挙に行くことで政治に対する責任が生じるのだから、選挙に行っておしまいではなく、政治への責任を果たすためにも政治に意見する資格はある

それでもまだ「選挙で決まったから…」としつこく言う奴はいるかもしれない。でも考えてほしい。そもそも選挙で既に政治家は決めたのだから、国民が何をゴチャゴチャ言おうと最終決定権は政治家の側にある。どうせ決定権は政治家にあるだから、人々が政権をどんなに批判しようが無視することはいくらでもできる。政権への批判なんて勝手に言わせておけばいいのだ

ただし、政権への批判が無視されたことへの報いを、政治家は後で受ける覚悟は持たざるを得ない。そして、現行の政治に不満のある者は選挙で報いを与えればいい

選挙に行くことで政治への責任を得て、その責任によって普段から政治について論じ続けて、その結果を見て次の選挙で選択する…というサイクルが重要なのだ。選挙に行かずに政権批判してる奴ならいくら叩いていいけど、選挙に行った上で政権批判してる人まで叩く野郎には殺意しか感じない2

「若者は選挙に行くべき」か?

これまでの議論を踏まえた上で、「若者は選挙に行くべき」の意見に対しても、行きたい人だけが勝手に行けばいいと思う

だいたい若者が選挙に行かないのは昨日今日始まったことでもない。そもそも選挙になってから「選挙に行くべき」と騒ぐのが遅くて、普段から政治について語って興味を持ってもらう方が大事。選挙に行くかどうか?は、そうした普段からの活動の結果でしかない

「親ガチャ」と無知のベール

これも比較的に最近だが、「親ガチャ」という言葉が流行っていた。「親ガチャ」とは子供は生まれる親を選べないので、どの親の元に生まれたかで人生が決まる…みたいな話だ3

自分はこれを見たときにすぐに、これってロールズの無知のベールと同じじゃん!と思った。自分がすぐに思いつくぐらいだからそのうち誰か何か書いてくれるだろう、と期待していた。でもどうも駄目そうだ。つくづく日本のリベラル論者にはガッカリしかない

無知のベールが社会の設計の仕方につながる深い議論なのに対して、親ガチャはそれだけで独立した一時的な流行り言葉でしかない。親ガチャはどの親に生まれるかで人生が決まるとする消極的な運命論でしかないが、無知のベールはどの親に生まれるか分からないならどう社会を設計すべきか?という積極的な議論だ。出発点は同じでも意味合いは真逆に近い4

無知のベールの本質を保険の例から説明する

無知のベールもそうだし権力分立もそうだが、日本人は根底となる制度やシステムやプラットフォームについて考えるのが苦手だ。これは小室直樹の言っていた「日本人は社会科学的思考が苦手だ」という話と同じ話で、戦前から現在までさっぱり変わらない5

無知のベールは本気で説明し始めると大変なので、要点となる部分だけ説明します。興味を持った人は自分で勉強してください

無知のベールによる社会設計とは何か?それを説明する一番簡単なやり方は保険を例に出すことである。保険とは、事故や病気になったときのために入っておくと保証される仕組みである。保険に対しては、結果として事故にも病気にもならなかったときに、払ったお金が勿体無い…という人がいる。これはあとづけによる思考法でしかなく、そう思うなら始めから保険入るなよ!でしかない

重要なのは、自分が事故や病気になる可能性はあるのにそれが前もって分からない…という確率的な状態である。こうした不確実な状態に対して、保険はもしもの時の保証による安心を与える。結果として事故や病気にならかった時に保険に入っていて損したと考えるのがおかしくて、もしもの時の保証による安心を買ったのだと思うべきだ

日本のリベラルの困ったところは、弱者の味方ごっこみたいな道徳的な話にすぐに落とし込みがちなところだ。そうではなく、保険における事故や病気の可能性のような、自分が事故にあうかも?自分が病気になるかも?みたいな、より多くの人における交換可能性を根拠として持ち出すべきなのだ。そして、無知のベールとはまさにそうした議論なのだ

つまり、社会の中の誰と立場を交換しても構わない…と思えるような制度を作りましょう!というのが、無知のベールによる議論の本質となる目的であり、合理的選択理論を用いた具体的な議論は(古びたせいもあり)あまり詳しく知らなくても問題ないと思う

ただし、交換可能性の範囲をどの程度に置くべきなのか?は、現代社会においてはますます分かりにくくなっている。それこそローティの言うように人々の感情によってその範囲は決まりうる。後期ロールズの政治的リベラリズムとは、交換可能性の範囲を定める条件についての議論であって、前期の正義論を否定したとかコミュタリアンの批判を受け入れたといった見解には根拠がない(「正義論」の第三部の書き換えとするのが正しい)

とりあえずの結論

この記事は、始めから明確な目的があって書き始めたのではなく、自分の中のモヤモヤを発散するために書き始めただけなので、元から結論など決めてなかったが、ここまで書いてみて思いついたことで締める

政治への責任を全うするためであれ、人々との交換可能性の範囲を定めるためであれ、人々が会話を続けることが必要だ。それもできればネットだけでなく、現実世界で会話することで相異なる互いを知りえるはずなのだ[^5]


  1. ただし、これらの論証がただの直観ポンプ(勝手な直観に頼ってるだけ)でしかないと可能性はありうる。だとしても、元々の論証を無視していい理由にはならない

  2. コロナ禍の中、あるラジオ番組で「政権批判するな!」的なことを言った某大物ミュージシャンの言葉をリアルタイムで聞いていたが、本気で殺意を感じた。そのミュージシャンは政治を語らない芸能人が好き的なことを普段から言っていたが、その当本人が最も最悪の政治的発言を平気でしたのには呆れた。それ以来、そのラジオ番組を聞くと不愉快になるので聞かなくなった(好きな番組だったがもう無理)

  3. 親から子が生まれるから「親ガチャ」という言い方は変だ、という批判はネットでも見てもっともなのだが、ここではそこには突っ込まない

  4. もちろんロールズの無知のベールに対しては、リバタリアン(自由至上主義者)による批判は知られている。しかし、日本には真っ当なリバタリアンなんてほとんどいない(その場の勢いで自己責任論で騒いでるだけで、一貫性などない)ので、ここでは論じない(むしろ本物のリバタリアン出てこいや!)

  5. コロナ禍がそれを邪魔してるのは端的に残念でしかない。じゃあ、コロナ禍でなければ良くなってたか?と言われたら、そうでもない気もする(自分的にはコロナ禍の前が良かった訳でもない)。顔を合わせられないなら、せめてまともな議論ぐらいもっとあればいいのに…とはずっと思ってる

予測処理(予測符号化)の源を引用から探る

今の認知科学で大いに話題となっている予測処理およびその元である予測符号化には、歴史的に見ると何人もの先駆者がいることはよく指摘される。彼らは皆、知覚とは単に外界から感覚を受けとるだけではないことを強調する点で共通している

多くの研究者が予測処理(PP)のアイデアを、十九世紀の物理学で医者・心理学者であった新カント派のハーマン・フォン・ヘルムホルツの仕事と結びつけてる。彼は「脳は仮説検証マシンである」と明示に著した最初の学者だ。
…中略…
他にも、予測処理(PP)の哲学的な発想として重要なのは、マッケイやナイサーやグレゴリーのような研究者の仕事もあり、彼らは「合成による分析(analysis-by-synthesis)」を提唱した認知心理学者たちに属している。この見方によると、脳は感覚によって受け取った情報を集めて(ボトムアップに)世界の内的モデルを作るというよりも、表象を作って集めた情報と比較しようとしているのだ。

Michał Piekarski "Understanding Predictive Processing. A Review" p.4より 1

こうした、いわゆる知覚の無意識的推論の考え方はギブソン派や反表象主義者に忌み嫌われており、その影響で日本でも誤解されていることはよくある。だがとりあえず賛否は別にして、正しく理解することが議論を先に進めるためには必要だ。この記事はそのきっかけを与えるのが目的だ

ヘルムホルツ本人の言葉を含んだ引用

まずは、よくこうした話題でよく挙げられるヘルムホルツについての論文からの引用をしてみよう

そしてこの点がヘルムホルツの考える経験説のハイライトになるのだが、経験的に形成された連合や反復は、「無意識的推論(unbewusster Schluss)」という形で働くとされる。ヘルムホルツのこの概念は非常によく知られている。「無意識」という言葉を異なる文脈に過度に引き付けるべきでないことは当然として、「推論」という言葉は本来意識的に行われる高度な論理活動を言うので、その名称は言葉だけを表面的に追う向きには誤解の余地を孕んでいるが、ヘルムホルツはその点についてこう説明している。

実際のところ、我々の感性的知覚において大きな役割を果たしている推論は、論理的に分析された推論の通常の形式で語られるものでは決してない。いつも歩いている心理学的分析の道から脇に行かなければならない。そうすれば、通常いわゆる推論において働いているのと同様の精神活動がここで実際に関わっているということが確信できる。論理学者の推論と、感覚を通じて獲得された外界の見方として結果が表れてくる帰納推理(Inductionsschlüsse)との間にある違いは、私には実際のところ単に外面的なもののように思われる。主に違うのは、前者は言葉で表現できるが、後者はそうではないという点である。何故なら、後者では言葉の代わりに感覚や感覚の記憶像しか見られないからである。(NF,358)

確かに神経繊維内で生じている事態を言語化することは困難であるが、そのため言葉こそ用いていないが、知覚の背後で働く「推論」は、命題や判断とも見なせるものである。

福田覚「ゲーテヘルムホルツ」p.63-4より

正直なところ、日本であまり理解されていないヘルムホルツについての引用をできた時点で個人的にはもう満足だ。だが、手元にあった本からたまたま今回の話題に都合のいい箇所を見つけた

リチャード・グレゴリー本人の言葉を含んだ引用

リチャード・グレゴリーは、私が学生時代に読んで好きになった学者だ。ここでは手元に持っていた認知心理学事典の錯視の項目からいい感じの箇所を引用しておきます

Gregoryの認知的錯覚に対する考え方は、知覚の理論化における経験主義、構成主義の伝統の内にある。このアプローチを要約する有名な格言に、Helmholtsの「知覚とは無意識の推論である」がある。Gregogy(1973, p.51)はこの点を、次のように説明している。

知覚とは、利用しうる感覚データと解決困難な知覚の問題に左右される、多少とも真実と思われる「結論」(ないし「仮説」)である。(それらは)感覚によって与えられたデータや記憶の中に貯蔵されている(データから)推論されるものである。この見方から言うと、ちょうどどのような議論であれ間違っているかもしれないように、どのような知覚であれ間違っているかもしれない。それは仮説が間違っているからかもしれないし、あるいは議論の形式が誤っているからかもしれない。知覚についてこのような考え方に立つなら、哲学者にとって逆説と曖昧さが議論の本質に対してもつ重要性、あるいは真実や事実の発見のためにいかにデータを用いるのか、ということの重要性と同じ重要性が、錯視にもあるといえる。

M.W.アイゼンク編「認知心理学事典」『錯視』 の項目 p.140より

学生時代に読んだリチャード・グレゴリーの錯視の説明には本当に感心したし、故に錯視をうまく説明できない直接知覚説には納得したことがない2。無意識的推論説の良さはもっと知られてほしい

ここまでが予測処理(予測符号化)の歴史的な先駆者としてよく挙げられる例だが、それはまだ本当は一部でしかない。これまで挙げてきたのは知覚の理論だったが、もう一つ重要なのは日本の学者による運動制御の研究である。知覚論と運動制御論の合流点に予測符号化があり、それを拡大して一般化されて予測処理や自由エネルギー原理が成り立ったのだと考えている

伊藤正男の講義録からの引用

元々の論文から引用するのは私にはキツイので、後々になされた伊藤正男の講義から、予測処理(予測符号化)と関連があると思われる箇所を引用してみます

この外界,もしくは脳内の他のシステムの入出力関係をコピーしたネットワークのことを内部モデルと呼ぶ.
ヒトはこの内部モデルを獲得することで,適応的な運動制御を学習することができると考えられている. 運動学習を実現するための内部モデルとして,運動指令を入力,その結果おこる運動(実際の体の動き)を出力とする,身体や環境の特性をコピーした内部モデル (順モデル),行いたい運動の計画を入力とし,筋肉に送る運動指令を出力とする,運動野での処理をコピーした内部モデル(逆モデル)の 2 種類のモデルが考えられる.前者の場合,運動指令からその結果を知る事ができ,ヒトが運動の結果を感覚刺激として受け取って処理する時間を無視して実行する運動の結果を予測することで,なめらかで正確な運動制御に貢献していると考えられる.また後者の場合,行いたい運動からすぐ運動指令を決定できるため,学習が進めば最適な運動の選択を素早く行う事が出来る.伊藤は,順モデルの獲得による運動学習を提案した(Ito, 1970).また逆モデルはその後に,川人らが提案したモデルである(Kawato, Furukawa and Suzuki, 1986).

「講演者:伊藤正男: オータムスクール ASCONE2008」p.95より

ここで重要なのは、脳に内部モデルが作られていることだ。これが予測処理(予測符号化)における生成モデルの重要性(およびそこから派生した表象主義論争)につながっている

予測処理のもう一人の先駆者C.S.パース

最後に、この話題では必ずしも出てはこないが、実は重要な先駆者としてパースを挙げておきます

ベイズ的な推理では、出力頻度だけでなく説明(仮説)そのものの特徴にも注意が払われているが、これは(ベイズ)知覚とは感覚入力の原因に対する脳の「最良の推論」であるというスローガンとして理解できる。ということは、ベイズ脳とは演繹でもなく帰納でもなくアブダクション (Hohwy 2014)であると言えるのだが、ここでいうアブダクションとは典型的には「最良の説明への推論」として理解されるものだ

Anil K. Seth"Inference to the Best Prediction A Reply to Wanja Wiese" p.2より

ただし、パースについては事情がややこしい。パース自身が知覚はアブダクションであると指摘している箇所は確かにある。しかし、アブダクション最良の説明への推論との関係については議論が紛糾しているところがある3。予測処理とアブダクションには共通点があるように見えるのだが、まだその辺りはあまり整理されていない 4


  1. この引用に対して細かい指摘をすると、ヘルムホルツは(当時の分類としては)心理学者というよりも生理学者とする方が一般的だし、「合成による分析」はナイサーが元々は工学における音声処理で使われていたアイデアを借りてきたものだ。内的モデルという言葉も、予測処理における生成モデル(表象主義論争)を考慮すると誤解を招く言葉遣いで感心しない。また論文の注では、Hohwyが中世のアラビアの学者Ibn al-Haythamをも先駆者として挙げていると指摘されてる

  2. 生態学的アプローチの系譜をたどると直接知覚説は必須ではないと感じる。ギブソンの影響が大きすぎることで、生態学的アプローチへの理解が偏っている気がする。ギブソンの知覚論についてはもっと当時の心理学的な背景から理解するべきだと思う。

  3. アブダクション最良の説明への推論については、同じではないことにはパース研究者の間でかなりの同意があるが、どの程度まで共通点があるか?については相当に意見が分かれている(無関係派もいる)

  4. パースについては個人的にいろいろと調べてはいるので、気が向いたら何か書くかもしれない。特にアブダクションについては前々からいろいろ調べてきてる