人工知能ブームのとばっちり

いつものようにネットで調べものをしていたら、あるサイト(AIの真の可能能を見極めよ)で人工知能について私の知っていることとは違うことが語られていた。やっぱり自分が口出さないといけないのかな〜、でも正しいサイトがあればそれでいいや!と思って他のサイトも調べてみた。さっそく検索上位をいくつか見たのだけれど、該当の点については正しいのだけれど別の点が間違っていた。しかし別のサイトでは逆だったりと、堂々と紹介できるサイトがない。最近は自分は論文を読むことが多いのだけれど、そっちでもいい感じの文献が見つからない。ネットはたしか便利だけれど、案外必要な情報は(内容が間違っていたりもして)うまく手に入らない。
疑問に感じたのは強い人工知能のついてなのだが、上に挙げたのも含めて人工知能が意識や自我を持つことだと説明していることが多い。強い人工知能の源は哲学者サールだけれど、そこまでは指摘しているのに説明は同じだったりする。「マインズ・アイ」なら手許に持っているので、一応そこに収録されているサール「心・脳・プログラム」を改めて見なおしたけれど、やっぱり自分の方が正しいと確信した。強い人工知能ってのは人工知能が文字通りに心を持つと言えるか?の問題であって、そうでなければサールの提出した中国語の部屋を理解できない*1。ちなみに、同じような誤解は汎用人工知能についてもあって、正しい定義は論文「汎用人工知能概観」を見てください。汎用人工知能は特化型人工知能ではない…というネガティヴな定義をしておくのが穏当だ(汎用性の幅の定義は今のところ人によってバラバラで困難)。強い人工知能を信じている人は汎用人工知能を目指しがちかもしれないが、結びつきが必然的な訳でもない。
こんな勘違いが起こったのは、そもそも書き手が文献をまともに参照してないせいもあるが、それ以外にも人工知能に触れた最近のサイトが話題のシンギュラリティーに触発されたものが多く、そこからの偏見が働いているせいだろう。シンギュラリティーについては初めに聞いた時から馬鹿にしていて、まともに人工知能の知識を持っていれば素朴には受け取れないことだけは確かだ。これはシンギュラリティー(人工知能の知性が人を超える)が可能か不可能かの問題ではなく、そんなことを真面目に議論するほどの段階になどさっぱり達していないからにすぎない。これについてはいい記事があるのでそれを参照してください→AI - その革命はまだ起きていない、そして起きそうもない*2
今回の人工知能ブームといいその前までの脳科学ブームといい、ブーム時には生半可な知識で適当なことを言う奴が目立ってきて困る。その中には学者もそれなりに含まれているのが頭が痛い。本当は今回の調べものはIA(知能増幅)についてであって、スマホタブレットはIA構想の実現ではあるけれどインターネットとの結びつきはIA論者の想定ではなかったはず…という話を考えていたのだが、その話題の中心である知識の問題(IAの想定していた知識はインターネット媒介の不確実な知識すとは異なる)がその調べ物中に立ちはだかった。これまた別に考えていた、現代の教養は知識ではなくて*3(メディア)リテラシーなんだと改めて確信した。

*1:心の有無と意識の有無は別に分けるべき問題

*2:ちなみに、この記事中の翻訳エッセイに「現在AIとよばれるものは、工学関連の分野での低レベルのパターン認識やモーション・コントロールに関するものか、」とある低レベルとは、高次認知(思考や言語)と低次認知(知覚や運動)の対照における低レベルのことだ。もちろんモーションは運動のことだし、パターン認識は知覚で起きることだ。質が低いとか基礎的という意味ではない

*3:教養となる知識は論者によってバラバラ(歴史とか経済とか古典とか)でさっぱり一致しない。要するにその論者にとって都合のいい知識が教養と称されているだけだ