最近のWIREDのAI記事をお勧めしてみる(一部コメント付き)

ネットにある日本語で読める信頼できる科学記事…というのはお世辞にも多くない。その中でWIREDの翻訳記事は質の高い信頼できる科学的な記事ばかりで当てになる。特に初期の情報が混乱してた中での新型コロナ関連の記事はとても助かった。

WIREDは人工知能(AI)関連の記事も充実していて、読み応えがある。日本でブームで出てきたにわかのミーハー野郎と違って、認知科学の知識のある人が書いた記事もよく見かける。

WIREDのAIについての短期連載はお勧めしておく

そこでまずは、最近まで短期で連載してた人工知能の連続記事をがお勧めなので、全部リンクしておきます。各記事にコメントしたい欲求にもかられるが、ここでは抑える。





人工知能は常識を身につけられるか?

もう一つのお勧めは、この短期連載の直後にWIREDに掲載された記事。これまでのAI研究の内実を凝縮した記事で、ともかくこれをお勧めとコメントをしたくてこれを書いている。特に上の短期連載を読んだあとで読むと味わい深い。

人工知能は常識を身につけられるか?という問題は、数十年前からずっと言われ続けている問題で、ニューラルネットワークが発展した現代でもほぼ解決してない。

詳しくは記事を読んでもらうとして、相関と因果や統計と論理といった対比はこの問題の基底だか、もうずっと解決してない。ただ、AIの常識問題を見かける度に不思議に思うのは、なぜ常識について論ずるときに身体の話題にはあまり触れられないのだろう?ということだ。

常識と身体の関係を考える

常識は人工知能の世界では長らく問題になり続けている。他方で、特に哲学を中心に心の身体化の議論は大いに賑わっている。なのに、工学者は常識を外側から知識で身につけさせようとし続けており、哲学者は身体については喜んで語るのになぜか常識にはあまり触れない。

どう常識を身につけられるか?には科学的には大きく二つのアプローチがある。一つは(素朴物理学などの)素朴理論を生得的と見るコア知識アプローチであり、もう一つは経験からの獲得であるとする構成主義アプローチだ。これらは必ずしも二者択一ではないにしても、どちらにも身体の視点はまだ弱い。

常識の多くには、世界の中での身体を持った上での経験から身につけられることも多いはずだ。なのに、なぜ常識と身体を結びつける議論は少ないのか?

身体と言語(化された知識)とのギャップ

工学者が常識について語るとき、たいてい知識としての常識を相手にすることが主だが、それはだいたい言語化された知識であることが多い(WIREDの記事も参照)。それに対して、哲学者が身体について語るときは、言語化以前の活動する主体としての身体を話題にすることが多い。ここには明らかにギャップがあって、そのままでは向こう側には渡れない。

身体と言語(化された知識)と間には大きな裂け目があって、ここを超えない限り、常識問題はなかなか進展しないと感じる。ロボティクスの構成主義アプローチも知らなくもないが、それはたいてい物事の分類に留まっていることも多く、(ニューラルネットワークを含む)統計的アプローチとの差がどこまであるかどうもよく分からない。

とはいえ、身体と言語の問題は相当の難所なので、そう簡単には解けそうにない。過去にも様々な優れた学者がそこに挑んできているが、そうは成果は出ない。しかし、本当の問題はその難所に本気で挑もうとする人自体が少ないことの方が、深刻な問題な気もしなくもない。