郡司ペギオ幸夫と宮台真司の対談からのとりとめのない連想

  • この記事は、(私にしては)全体的にとりとめがない文章なので、そこを承知の上でお読みください。

郡司ペギオ幸夫と宮台真司の対談を読んだのだけれど、一応面白くは読めたけど、認知科学関連に関してはまぁ突っ込みどころが満載であった。素直にはお薦めしにくい。

宮台真司に関しては、私は若い頃のキレキレの宮台は好きだったけど、若者が劣化したとかいう(根拠のない)古代からある凡庸な年寄りの繰り言を近年に繰り返すようになってからは期待しなくなった。とはいえ、日本の論壇的なレベルが下がったので、相対的にはまだマシなのは皮肉。宮台真司の学問的な話は眉唾で読むぐらいがちょうどいい。

郡司ペギオ幸夫は、かなり前に読んだ事があって何言ってるか訳が分からないので、それから無視するを決め込んでいる。今回、この対談を読んで、ペギオは現代思想的な関心があるのだと分かったのは収穫。もう科学の振りはやめてしまえば?…とこの対談を読んで思った。

この対談記事は、前半(一夜から三夜)が心の学問的な議論で、後半(四夜から五話)は個人的な体験の話で、圧倒的に後半が読みやすい。てか、前半は理解できる人はほとんどいないと思う。私は分かる側だが、だからこそ突っ込みどころ満載なのもよく分かる。

フレーム問題について

なにより困ったのは、フレーム問題の説明が間違っていることだ。前半の全体として言いたいことは何となく分かるが、説明の間違いに変わりない。フレーム問題はネットで調べれば大体正しい説明が出るので1、それを見てください。

対談記事ではフレーム問題を意味の問題のように言ってるが、実際は問題解決における決定が焦点になってる。どの情報をどれくらい参照すればよいのか?分からないのがフレーム問題であって、文脈という言い方は誤解を招く2

ちなみに、フレーム問題についてネットで調べていたら、フレーム問題はニューラルネットワークで解決してる…というサイトを見つけて、分かってないなぁ〜と思ったが、それは別の機会に書くかも3

否定神学システムの変奏

対談前半のテーマは、要するに日本の現代思想界で否定神学システムと呼ばれていることについて、変奏させて語っていると考えると良い。東浩紀のフォロワーは否定神学システムを甘く見てて、悪口を言えば済むと思っているが、そんな簡単なものではない。

例えば、思弁的実在論とは否定神学システムの新しい形の変奏だと言える。この対談では、フレーム問題や自己言及問題やクリプケンシュタイン(following rule問題)が否定神学システムの変奏として扱われている。

スペンサーブラウンの議論は昔読んだことがあるが、数理的にはただのブール代数であり、それが問題の解決になっているのか?は私にはよく分からない(てか疑問)。ただ、スペンサーブラウンはベイトソンルーマンが重要そうによく参照してたが、その後の学者にはろくに参照されてない。

小休止、指摘いろいろ

対談中で、人工知能オントロジーに触れられているが、どうもこれも正しく理解されていない。人工知能研究には文字通りのオントロジー研究の領域があり、それは分析的形而上学に近い。ニューラルネットワークオントロジー(存在論)を持てるか?を問う(その方面では有名な学者)バリー・スミスの論文は読んだことがあって、ここで紹介するか迷ってたこともある(既にやる気ない)。

さらに、対談にはバーワイズの名前も出てくるが、一般的にはバーワイズは状況意味論の提唱者の一人として有名。ただし、それと対談での話がどう関係してるのか?は私には分からない。ただ、ここで言われてるタイプ・トークンの混同は、明らかに否定神学システムを思わせる。

現象学から派生するオートポイエーシスアフォーダンスは、AIの基本理念に極めて整合的です」というペギオのセリフは私には意味不明。オートポイエーシスアフォーダンスも、現代思想色の強い人には好まれるが、科学的には定義さえ不明瞭で怪しい使い勝手の悪いものだ。むしろ、私には不整合にさえ見える。

なぜ心の否定神学システムは袋小路か?

細かい突っ込みどころは沢山あるが、その罠を巧みに避ければ、この対談記事の前半で言いたいことは、心を否定神学システムの変奏で理解しようとする試みだ。

この対談では、心を内部と外部の対から理解しようとしている。ただし、擬似外部に触れられているように、内部から設定される外部(擬似外部)と、絶対的な外部は異なるので、単に内部と外部の対とするのは誤解を招く4が、それはここでは重要ではないので議論はしない5

心を否定神学システム的に描き出すために、この対談記事では、一方でクリプキのような言語哲学、他方で現象学のような知覚的な哲学、によって閉じた世界を論じている。つまり、言語も知覚も心を閉じさせる点で同じ仕組みなのである。そのことで、心の否定神学システムが成立されている。

こんな議論(否定神学システム)は科学的ではないと言われれば、その通りだし、この対談から感じられる、ペギオが科学であることから離脱しようとしている方向性は良い傾向だと思う。こんなの科学で扱う問題ではない。

ただし、私は無駄に哲学にも詳しいので、そちらの方向から、心の否定神学システムの不毛さに接近してみます。

言語と知覚を概念の糊でくっつける

ここでの心の否定神学システムで前提にされているのは、言語と知覚を一体とした経験の世界を閉じた世界として想定することだ。これは知覚は全て概念化されていると主張するマクダウェルを思わせる。言語と知覚は概念を糊としてピッタリとくっついているのだ。

こうした心の全面的な知性化を批判しているのが、古典的人工知能批判で有名なドレイファスだった。ドレイファスは技能によって外部の世界に接触できるとしている。しかし、それは(安易な)神や身体への言及による謎への蓋と 同じでは?…との疑惑が湧く。外部の名詞化は不可解さを蓋で閉じることにしかならない6

その点では「やってくる」という動詞を使っているのは興味深いが、ここではそうしたレトリックの問題には踏み込まない。名詞化だろうが動詞化だろうが、どっちにせよ言語化してるのには変わりがない。そもそも、言語で語っているのに言語の外に出ろ!という自己矛盾にしか至らない。あとは、レトリックあるのみ…実際にある種の現代思想はそっちに走ったが、私はそっちに興味はない。

心の否定神学システムから逃れる?

どこに問題があるのか?それはマクダウェルに遡るとヒントがある。マクダウェルはガレス・エヴァンスによる概念的内容と非概念的内容の区別を批判した。これはセラーズの所与の神話批判に遡って行なわれている。

しかし、セラーズは概念的内容を非概念的内容(感覚データ)に還元できないと言っているのであるが、これはエヴァンスの主張と同じではない。それに大体、マクダウェルの概念主義の擁護論には、全てを必然的に概念的だと言わざるを得ない反駁不可能な議論が含まれており、お世辞にも健全な議論とは言えない…と私には見える。

ここで私が疑いたいのは、言語と知覚が概念の糊でくっつけた経験なるものの想定だ。それを想定してる限り、内側と外側の対立(及びその対立を逃れようとする後退の連続)の中に閉じ込められてしまう。

私がお勧めするのは、その対立を逃れることではなく、その対立がどのように生成されるかを地味に論じる道だ。そのためにも、パースのデジタルとアナログの対やエヴァンスの概念的と非概念的との対が呼び出させれることになる。だが、これはただの出発点に過ぎない。

おわり

おそらく、以後ここでこのテーマに直接に触れることはないだろう。私はそれを認知科学分析哲学における具体的な議論として展開するだけであって、こんな無駄に抽象的な話にこだわるつもりはない。7


  1. ただしネットの日本語記事では、強いAIについては、相変わらず間違った説明が多い。強いAIは汎用AIと同じでもないし、意識とも関係ない。強いAIの議論の元となったサールの中国語の部屋を理解してないのが明らか。言いたかないが、工学系の人には元の文献を確認しない面倒くさがり屋が多い

  2. 意味の問題としてなら、むしろクワインの指示の不可測性やパトナムのモデル論的論証の方がしっくりくる。いや、せめて同じクリプキでも「名指しと必然性」の方が適切。

  3. イデアだけ書くと、確かに入力情報から適切な情報を選んで処理することは確かにできるが、そもそもどれだけの情報を入力として用意すべきか?は自明ではない(世界全て?)ので、結局は問題をずらしたに過ぎない。

  4. 自己言及を用いたり、無限後退を用いたり、と否定神学システムをより高度に定義する方法は幾つかありうる。おそらく哲学史全体を否定神学システムの変奏として描くことも不可能ではないと思う。

  5. 哲学史上で、絶対的な外部を問題にした代表的な哲学者は後期シェリングだろう。流行りの思弁的実在論や新実在論に、後期シェリング研究をよく見かけるのは偶然ではない。

  6. その点では(宮台解釈ではない本来の意味での)クオリアも同じ。クオリアとはいかなる一致からも逃れる外部(主観なのに外部!)だが、これも実は蓋をしているだけだ。

  7. とはいえ、対談の内容の中で触れようとしてできてないのもまだある。心や社会を全て論理的だとされてるが、現実を見ると…どこがだねん!(世間は不合理な奴だらけ)と突っ込みたくなる。だいたい形式としての論理だけでは世界認識を覆うことはできない。その典型はラムジーの「論理哲学論考」批判にある。形式としての論理だけからは異なる色が同時に同じ場所にありえないことは導けない!ここから、意味論や常識問題(オントロジー)への展開が始まる。日本の否定神学システム論の駄目なところはその雑な議論にある。そもそもまだよく分かってもないものを乗り越えた!とか言って調子に乗ってる馬鹿にはウンザリ