フリストンブランケットはどんな科学モデルなのか?
論文「皇帝の新しいマルコフ織物」
今回、ある程度突っ込んで紹介したいのは、次の論文だ。
論文のタイトルは、おそらくペンローズ「皇帝の新しい心」からのもじりだと思う(元々のもじり元があるのかもしれないが私はよく知らない)。共著者に私がここで2010年台のベスト論文に選んだ学者もいたので期待してたが、実際に中身を見てみるとなかなか面白い。
マルコフブランケットとは?
この論文では、フリストンの自由エネルギー原理で用いられているマルコフブランケットを検討している。マルコフブランケットとは、ベイジアンネットワークの一種で、物事同士の確率的な関係をつなげて並べたものだ。そのネットワークの図式化が織物(ブランケット)の糸が絡み合った感じに似ているので、そう呼ばれている。
ここではマルコフブランケットについて説明するのが本筋ではない上に、どうせインターネット上に色んな説明があるはずなので、詳しく知りたい人は調べてみてください。ただおそらく、マルコフブランケットについてあまり理解してなくても、以下でする科学モデルについての議論はそれなりには読めるとは思います(たぶん)。
フリストンは、マルコフブランケットを科学モデルとして使用しているのだが、その使用法に疑問を呈するのがこの論文だ。
マルコフブランケットの二つの利用法
フリストンは、マルコフブランケットを生物をその環境と隔てる境界を見つけるのに用いている。生物が身体を動かすと、基本的に身体だけが動いてその環境はそのままだ。大雑把に言えば、生物が制御できる身体の範囲が生物の境界であり、その境界の辺りで物質間の因果関係が断絶しているはずだ。
マルコフブランケットは、元々はパールという学者によって有名になったベイジアンネットワークの一種である。しかし、フリストンのマルコフブランケットの用い方はパールの用い方とは違っているようだ。そこで、マルコフブランケットの使用法をそれぞれパールブランケットとフリストンブランケットと名付けて分けて考えようとしている。
パールブランケットとフリストンブランケットの違い
マルコフブランケットをどう科学モデルとして利用するか?について、どう考えればよいのだろうか
科学哲学にはある大きな論争がある。それは、科学的に観察できない現実を信じることは正当化されるか?(実在論)、観察できない何かは科学的に観察できることを説明する助けになる補助的な構成物であるか?(道具主義)、との論争である。論争の細部を無視すれば、この疑問への答えはモデルを用いることと部分的に関係があると考えている。
科学モデルについての実在論と道具主義の考え方は、マルコフブランケットの使用法にも応用できる。パールは主観的確率を採用していることでも知られており、マルコフブランケットの使用も道具的なものに近い。しかし、フリストンはどうも様子が違う。
モデルでの推論(inference with model)とモデル内の推論(inference within inference)との違いは、大雑把にパールブランケットとフリストンブランケットの使用に対応する。これは、後者の構成における隠された交換条件(payoff)が前者よりもかなり雑な理由である。モデルでの推論では、図式的なモデルは科学者が推論を行なうための認識的な道具である。モデル内の推論では科学者は場面から消えて、目の前で起こる解きほぐされる推論の単なる観察者となる。ここでは、フリストンブランケットは推論の構造を表している。つまり、どうすれば生きたシステムと分かり、このシステムと環境との間の境界を定められるのか?を明示しているのだ。
(マルコフブランケットではないが)ベイジアンネットワークは認知モデルとしてもよく使われているが、その場合はパールと同じで主観的確率が前提にされており、あくまでモデルは道具的に使われている。しかしフリストンの場合は、マルコフブランケットを現実をそのまま映し出したものとして使っているようで、単に道具的に使っているとは言いがたい。
モデルとして曖昧な位置にあるフリストンブランケット
結局、この論文で示された考察では、自由エネルギー論者をジレンマに陥らせたままになる。一方で、自由エネルギー論者は、単に道具的な解釈を許す、マルコフブランケットの素朴な概念を受け入れられる、[…中略…]、他方で、現実の持つ数学的な構造について強い形而上学的な前提を幾つも取り入れることができる、そうして主体と環境との間の文字通りの境界となるブランケットとなる実在論的な読み方を支持することになる。
なぜフリストンにおけるマルコフブランケットの使用法がこのような曖昧な位置にあるのだろうか?
パールの場合は、モデルは現実を推測するための道具として端的に使われている。しかしフリストンの場合は、モデルは現実の物質的な構成を推測するための道具でもあるが、さらに生物と環境との境界を見つけるためにも使われている。この推論の二段階の使われ方がフリストンにおけるモデルの位置づけを複雑にしている。
つまり、まずは現実の物質的な構成をモデル化した上で、そこから生物と環境の境界を推測している。後半の境界の推論においては、モデルが現実を映し出していること(自然の鏡!1)が既に前提にされている。まさに、これこそが「モデル内の推論」と言われるゆえんだ。
個人的な感想
私の印象では、フリストンブランケットのこうした特徴は、自由エネルギー原理において認知モデルの層と物理主義の層が分かれていて、その二つの層が実はつながっていないことの反映のようにも見える。
たたでさえ、予測処理理論が少なくとも統一理論としては怪しく思えてきてるのに、さらにフリストンのマルコフブランケットの使用にも疑問があるとなると、自由エネルギー原理にどこまで期待してよいのか?私にはよく分からなくなってきた。
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ローティの著作「哲学と自然の鏡」より↩