アブダクションについての調査-中間報告

私は興味の出たテーマをあちこち調べてることが多いが、その際にたまに全く別の興味から調べていた内容どうしが結びついてるのに気づくことかある。最近ものすごくそれがあって、アブダクションと最良の説明への推論の関係を調べてることは既にここでも触れたが、それが別のルートとつながって驚いた。

最良の説明への推論との関係

それは、お気に入りの統計エッセイな論文を再読していたときに分かった。そこにアブダクションの名前が出てきた。あぁこの著者はアブダクション好きだなぁ〜とは前から分かっていたが、そこでの説明を読んでいると…あれ?これって最良の説明への推論と同じじゃん!と気づいてしまった。

あと、これはつい最近だが、生物学系の科学者が話してるポッドキャストを聞いてたら、そこでもアブダクションの名が出てきた。それは「最良の説明への推論」とは異なるアブダクションのもう一つの側面の方らしい。

詳しくは別の記事にするにして、ここでは簡単に説明しておく。アブダクションには、大きく分けると仮説生成の側面と仮説選択の側面がある。「最良の説明への推論」は仮説選択に当たるが、ポッドキャストに出てきたのはどうも仮説生成の方らしい。アブダクションにこの二つのどちらの面をみるかは研究者によっても異なり(例えばハンソン流の解釈とハーマン流の解釈)、それどころか当のパース自身が時期によって強調面が違う…という話を独立の記事に書こうとしているが、いつ書けるか?そもそも書けるか?目処はまだついていない。

統計理論との関係

今回はさらなる別ルートもあって、それは統計の勉強してて経験ベイズについて調べていた件だ。経験ベイズを作り上げた統計学者の一人のI.J.Goodについて調べていた。そこで出てきた用語「証拠の重み」が、これまたパースの確率についての論文に由来するという。これが(周辺)尤度を介してベイズファクターや経験ベイズへと結びついている。

自由エネルギー原理についてのある日本語論文を眺めていたら、そこにもアブダクションの名が出てきた。そこには証拠によるモデル選択だと書かれている。ここで尤度(証拠)を最大化するモデル(仮説)を選ぶ…と捉えると、まさに「最良の説明への推論」そのものだ。

異なるルートがつながるのは楽しい

こうやって文章にしてみて気づいたけど、こんなにいろんなルートが結びついたのは私でも珍しいかもしれない。異なる意外なルートがつながるのは、私にとって勉強する醍醐味ではある。だが、今回はつながるルートが多いし、まだ開拓の余地もある。もうちょっと各ルートの整備をして、もう少し先までルートを延ばす必要もありそう。

とはいえ、研究をしてるつもりはない(オリジナルの発見はない)ので、そこそこのところで切り上げるつもりだ(パースの原典までたどると切りがない)。どこか切りのいいところで記事にしてとりあえずおしまい…といういつもの展開にするつもり。とりあえず、これは中間報告。

おまけ、ほぼただの妄想

本文で異なるルートがつながる話を書いたので、少し前から哲学について考えていたことを書きなぐりたい。

(大陸哲学由来の)現代思想と(今は哲学の主流と化した)分析哲学との違いについて、個人的に好き勝手に考えていた。ただ、なんの根拠もないので書くのは躊躇してたが、おまけ程度に書くなら…と書いてみることにした。ちなみに、現代思想とは何か?分析哲学とは何か?を問うと泥沼にはまるので、それはできるだけしないので大雑把なイメージで聞いてください。

高峰の踏破としての哲学

過去に東浩紀が書いてたある記事で、現代思想はオカルトで分析哲学はオタクになってしまった…みたいなことを読んだ覚えがある。そもそもマトモな学問はマニアックにならざるをえないのだから、オタク的なことは悪口にならないのでは…という疑問は脇に置けば、言いたいことは分からなくはない。

以下に書くのは、私の勝手なイメージによる妄想なので、そこは大目に見て読んでください。

哲学の目的をエベレスト並みの高山の頂上にたどり着くことだとする。

世の中の職業的な哲学研究者には、現代思想系か分析哲学系かによらず、問題意識もなく論文を書くことが自己目的化した学者(院生)も多い。そういう人の書いた論文はたいていつまらないが、そういう低レベル(山に登った振りだけ)はここでは問題にしない。

ハイデガーの系譜を継ぐ現代哲学は、高山の頂上を直接に目指そうとして、絶壁や断崖をものともせずに直線の最短距離のルートを進もうとする。そのためには一般人にはとうてい扱えないアクロバティックな技術(議論展開の仕方)を堂々と使おうとするしかない。しかし、その人が本当に頂上に達しているのかは、第三者にはよく分からない。アクロバットを演じているうちに、自分はすごい域に達した…との幻覚を見てるだけかもしれない。そのアクロバットを真似できる人は稀なので、それを確かめようもない。

分析哲学はもっとマシなルートを行く。それでも険しいルートに変わりはないのでので、本格的な道具(論理や数理)がないと踏破することはできない。ここで道具にあまりにこだわって目的を見失うと、ただのマニアック(オタク)になってしまう。本格派の道具で険しいルートを踏破できるだけでもその人は優秀だ。しかし、頂上という本当の目的地を目指せる人はさらに少ない。たとえ特定のルートは辿れても、複数のルートを組み合わせて本来の目的地に近づける人は少数派だ。道具は使えているが、実は迷子になっている人は数知れない。ちなみに、新しいルートを開拓できる人はさらに稀。それから世間的なクオリア論受容によく見られたように、部分的なつまみ食いで満足してしまう人も多い(山の入り口に立ってさえない)。

なんとなく分かってもらえると思うが、私はルートを組み合わせる派だ。ただ、この方法は地味で好まれないし、目先の目的地だけを目指す近視眼的と隣り合わせの紙一重だ。しかも迷子にもなりやすく、意外なルートがあとから正しいと分かることもある。ただ、直線ルートと違って、周りの地形もよく分かるので、同じ位の高さであっても眺めが同じ訳ではない。半ばのルートの眺めもなかなか悪くないのだ。