そこでただ突っ立ってないで、考えなさい(前篇)

原文:"Don't just stand there, think"The Boston Globe,January 13, 2008

最近の研究によって、私たちは脳だけで考えているのではなくて体でも考えてると分かってきた。
あなたが、紛らわしい文書を読んでいたり、クロスワードパズルを解いたり、鍵のありかを思い出そうとしたりしているとき、自分の体を使って何かしてますか?座ってる?立ってる?歩いてる?手で何かいじくってる?独特のパターンで目をさまよわせている?
この質問にどう答えるかで、あなたが読んでいる物や解こうと悩ませている物や取り戻そうとしてる鍵などの問題を解決するのにどれくらい時間がかかるのか分かるのです。
脳はよくコンピューターのようなものに見立てられるに対して、体は万能の道具であるかのように見立てられます。しかし、近頃の体に関する研究によって脳と体はもっと協調的に働いていると分かるようになりました。私たちは脳だけでなく体ででも考えているのです。最近出版なされた一連の研究から、考えながら手を使うように言われることで、子どもたちは数学の問題をより解けるようになると分かったのです。別の最近の研究では、劇役者は動きながらの方がセリフをよく覚えられると分かっています。去年出された研究では、難問を説いている間に目を独特のパターンで動かすと、二倍よく解けるようになるそうだ。
こうした心の新しいモデルを描くのにもっともよく使われる用語が「身体化された認知」(embodied cognition)である。その考えの支持者は、それこそが人の心の能力を促進し理解するための全く新しい糸口を切り開くと信じている。ある教育者はこれを児童教育の新しいパラダイムだと見ており、ある人は読んだり書いたり暗唱したりする上で動いたり真似たりすることを勧めている。リハビリ医療の専門家は、発作や脳損傷によって奪われた能力を回復させるのを助けるのにこうした発見をひそかに用いている。しかしながら、もっとも大きな影響が神経科学そのものの分野において生じており、身体化された認知がこれまで心の伝統的な考え方を成り立たせてきた古臭い区別を─脳と体の間だけでなく、知覚と思考、思考と行為、理性と本能との間の区別さえをも─脅かしている。
「これは画期的な着想だ」とショーン・ギャラガー(セントラルフロリダ大学認知科学プログラムのディレクター)は言います。「身体化された視点では、あなたが認知について説明する上で脳の中を見るだけでは十分ではないのです。どんな場合でも、主に脳の中で起こっていることは、何が体に起こっているかそしてその体がその環境でどう位置しているのかに全体的として関連しているのです」
ウィスコンシン大学の身体化された認知の研究所に掲げられた標語は"Ago ergo cogito": 「私は行なう、故に考える」
この数十年で人の運動とジェスチャーの研究に関する分野が現われてきた。初期の研究の多くはコミュニケーション時のジェスチャーの役割に注目しており、そこでは話すときにジェスチャーが生じるかどうか、特に電話で話すときになぜジェスチャーをするのかが問われた。
しかし今日、神経科学者や言語学者や哲学者はもっと大胆な主張をしている。ある人たちは、人の特性とは共感のようなものであり、概念とは時間と空間のようなものであり、言語の深層構造や数学のもっとも根本の原理でさえ、結局は人の体の特質へとたどれるのだとしている。例えば彼らの議論では、人が立って歩かずかつ温血でなかったら、私たちは全く違った風に概念を理解していただろうとしている。さらに、体を持つという経験は私たちの知能と密接に関わっている。
チューリッヒ大学の人工知能研究室のディレクターであるロルフ・ファイファーは語る。「もしコンピュータにチェスをするのを教えたいか、サーチエンジンを設計したいなら、古いモデルで大丈夫である。しかし、現実の知性を理解したいなら、体に対処しなければなりません」

続きは(中篇)