もう少しマシな言語哲学への展望を妄想する

  • (承知済みだったとはいえ)前回の記事があまりにひどかったことに後から反省。きちんとした解説はid:optical_frogさんが訳した「レカナティ「語用論と意味論」」を読んでください。以下はあくまで私的見解としてお読みください。ちなみに、最近はやる気がないのでブログの更新は(めったにしそうにもないが)たとえしたとしてもこの程度のメモぐらいがやっとだと思います。

オースティンとグライスとの差異

とりあえず手元にある文献から思いつくところを適当に引用してみます

ラヴィスは、私が言う二つの「哲学的構図」を、自然言語における発話の意味論とはいかなるものかをめぐる相異なる見解として提起する。一つは(ポール・グライスに代表される)「古典的」見解、そして―よりなじみの薄い―もう一つはウィトゲンシュタインおよびオースティンに帰せられる「発話状況に敏感な意味論」である。(p.127-8)
私の知り合いのある言語哲学者―発話の標準意味と、その会話上の含みというグライス流の区別に固執している人物―(p.129)
もちろん、前記の古典的見解も、ある種の語(例えば、時制指示詞や「私」や「昨日」といったおなじみの指標詞)の厳密な指示が、個々の発話状況に依存して決まることを否定しはしない。だが、古典的見解が構想する自然言語の意味論は、タルスキ型(デイヴィドソンによるタルスキの業績の著名な転用・変形に見られるように)自然言語のすべての文に対して真理条件を再帰的に結びつけるものである。トラヴィスは、発話状況への敏感さが、特殊どころかむしろいかなる場合にも認められる規範的現象だと主張しているのである。(p.129-30)
パトナム「心・身体・世界」isbn:4588008307

似たような批判をトラヴィスはCappelenらにも行なっています(http://www.ciillibrary.org:8000/ciil/Fulltext/Mind_and_language_issue%201/Article5.pdf)。

意味の言語哲学への私的概観

意味論への見解に関しては大雑把に、カルナップ派・(後期)ウィトゲンシュタイン派・グライス派の三つに分けて考えることが出来る。意味は真理条件によって定まるとするカルナップ派は言葉の字義的意味を求めたが、これは今となっては破綻してしまった。急進的なウィトゲンシュタイン派は意味の使用説を武器に意味無用論を説く。グライス派はその中間を求めて標準的意味と話者意味の区別を設けた。グライス派のように最小限の意味や命題を求める必要はあるのだろうか。関連性理論はグライスのこの区分を批判しはしたが解決したとは言えない。グライス派の意味の二分法は、字義的意味を求めたカルナップ派と同じ罠に別の形ではまっている。オースティンが言うように、言葉の意味は文脈によって自在に変化するのである。ならば意味無用論が正しいのであろうか、それとも複数の状況にわたって文脈に依存した類似性があるのだろうか。
(補足:意味の全体論には文脈がどの程度含まれているのだろうか、意味への類似性の導入はルイス-スタルネイカー流の可能世界意味論と同じ問題点(と長所)があるのではないか*1

実例で考えてみる

生徒が先生に「おはようございます」と挨拶する場面を考えます。この生徒が遅刻してきて、先生に「おはようございます」と言って先生が「お早くないよ」と答えるとします。その後で生徒は先生に向かってお辞儀をして去っていきました。ここでの「おはようございます」は挨拶なのか字義通りなのか。ここでの生徒のお辞儀だって挨拶の続きなのか謝っているのかよく分からない。どちらも確定できないがおそらく妥当な答えだかもしれない。
父親が我が子を抱きかかえながら家族や近所の人の前で発言するとします。この場面で「この子は雄太だ」とこの父親が言ったとします。近所の人はそういう名前なんだと端的に思うかもしれない。しかし、隣でその台詞を聞いていた母親は、いつの間に子供の名前が決まったの?と疑問に思っているかもしれない。当の発言元の父親は今この瞬間にこの名前に決めたぞ!と思ってたのかもしれない。次の瞬間に母親が、いきなり勝手に名前を決めないでよ!と騒ぎ始めたら、この(父親だけがそうだと知っていた)命名儀式は失敗することになる。いや、その場ではとりあえずやり過ごしていたが後でごねるかも知れない(またはしないかもしれない)。
コミュニケーションにおける他者性の問題や事後からの判断や解釈における問題などは実はとてもややこしい問題だ。言葉は文脈に依存する(関連する)というだけで話が済むなら苦労しない。
↑後から気づいたけど語用論的な例ばかりだ。意味論的な例も考えないとしょうがないな。例えば「この海岸には船がない」と言ったときに、岸辺にボロボロのいかだがあってもこの言葉は正しいかのかどうかとか

個人的な関心

たぶん言語哲学に対して私が関心を持っている(コミュニケーション問題より以前の)問題は思いつく限りでは次の二つかもしれない
1:自然言語にとって真理条件はいかなる意義を持つのか。パフォーマティブな言明(例えば命名や判決)の位置づけはどうすべきか。いや、そもそもにおいて意味は存在するのか
2:(事後的な修正を前提にしたうえで)意味の全体論に文脈に関する情報は含まれているのか。もし含まれているとしたら、それは知識なのか能力なのか

*1:ルイスの理論に関しては「ディヴィッド・ルイスの様相の形而上学(PDF)」を参照してください。以下は勝手なつぶやき。ルイスの様相実在論を反基礎付け主義としての理解もできるだろう。これは(クリプキが固定指示子に行なっているように)対応者説を固有名から自然種に拡張すれば無限後退に陥ることから結論付けられる(これはおそらく記述説の持つ欠点と同じ)。ただしルイス自身は自然種に対しては自然な唯名論を適用して無限後退を阻止していたように見える。その場合は二次元可能世界意味論のような理論を導くことになるかもしれない(以下の検索で概説論文が出るので参照→google:二次元可能世界意味論の展開言語哲学的には反基礎付け主義の元に意味を一から学習すると考える方がいいかもしれない