奇抜な見解で話題になる分析哲学者たち
どうもクワイン以後の分析哲学には、奇妙な結論を引き出して話題になる哲学者が時々見受けられる。彼らは奇妙な結論の裏側に重要な哲学的問題を隠し持っているのだが、奇妙な結論ばかりが有名になって哲学の専門家の間に話題を提供することにはなるのだけれど、その奇妙な結論のせいで却って当の問題提起は見えにくくなってしまっているところがある。そうした哲学者とはデヴィッド・ルイスやリチャード・ローティやジョン・マクダウェルのことである。可能世界は現実世界と同じように実在するとか科学も芸術も政治も解釈学的には同じとか知覚内容はすべて概念的なので幼児や動物は知覚しないとか、奇抜な見解で知られる。しかし、その奇妙な結論に注目するのは実は誤りで、その裏に潜む哲学的難問に気づかないとしょうがないような気がする。つまり、デヴィッド・ルイスなら実在論問題、リチャード・ローティなら認識論問題、ジョン・マクダウェルなら超越論問題。こうした奇妙な見解はこれらの哲学的難問を一挙に解決するためになされたものなのだ。
しかし、彼らはこうした問題を一挙に解決しようとして一気に奇抜な見解にたどり着いてしまう。隠された問題提起は本物(それに気づいて取り組む側も本物)ではあるのだけれど、奇抜な見解ばかりに注目が集まってだんだんと当の問題提起が分からなくなってしまう傾向はある。そもそもにおける分析哲学の持つ特性のせいで議論が自己目的化しがちであること(哲学の専門家もお仕事)を度外視しても、当の提唱の本人たちも含めて問題提起そのものをあまり表に出さないせいもあるかもしれない。クオリア論なんかは問題提起と奇妙な結論がまだ共存しやすい方だが、でもこっちは哲学史的に大して遡れるわけではないことも含めて哲学的な重要性がどの程度なのか怪しんでしまう。逆に言えば、実在論問題・認識論問題・超越論問題はあまりに哲学的に深すぎてそもそも答えが出せる問題ではないので、奇妙な結論で話題になるしかないのかもしれない。