分析哲学が分かる人だけにしかお勧めしない記事です

いきなり追記:内容に自信がなくて書いてから公開をしばらくためらっていたのですが、思い切って出しちゃいます。適当に割り引いて読んでください
さらに追記:勘違いと思えるところを一部削除(横棒の入った部分)しました(08/10/11)


こちらのブログのコメント欄に書こうとしたコメントを、長大で難解な文章になったので、別にしてそのままこっちに転用(文体が滅茶苦茶なのはそのせい)。一切分かりやすく書いてないので、理解できなくても全く心配ありません(むしろ矛盾や論理の破綻がないか心配なくらい)。
理解するコツは「様相命題→普通命題→モデル」の三段階であることを考慮することです。本来のモデル論的論証は「普通命題→モデル」レベルの話だが、モデル論的論証による批判が強烈になるのは様相命題を持ってきたときである(なぜなら可能世界意味論が指示の因果説や選り抜きの集合に頼っているからだ)。ちなみに、この文章では「世界」は「可能世界」の上位概念として利用している傾向があります(つまり意味合いが違う)ので注意。

パトナムのモデル論的論証は可能世界意味論への批判にもなっています。詳しくは「パトナムのモデル論的議論と水槽の中の脳」(PDF)を見てください。到達可能な可能世界の集まりを可能世界群としたとき、同じ可能世界群を成立させている理論(様相命題群)を満たす二つの可能世界モデル群(つまり可能世界群(理論)に対して成立する全く違うモデル)がある場合において、その理論がどちらの可能世界モデル群を指示しているのかは分かりえない、と言う話です。その二つの可能世界モデル群を客観的に実在する可能世界(モデル群)と神の心の中にある可能世界(モデル群)とした場合、私たちがそのどちらにいるのかは分からないのです*1。「客観的に実在する世界」や「神の心の中にある世界」と言うのは理論に書かれていない前提(メタ言語)であり、モデル論的論証は一階論理の話なのでその前提を理論に書き加えることは本来はできないが、たとえどんな前提(メタ言語)を理論に加えようともさらに前提を遡れるので、理論とモデルの関係における不確定性は同じままだ。「客観的に実在する世界」や「神の心の中にある世界」とで違いはないのと言うのと同じ事態である。
ここで指示の因果説によって指示を固定化しようとしてもそれは魔術的な力の呼び出しでしかなく、その理論がどの可能世界モデル群を指示しているかの決定には役立たない(少なくともそれは理論の外側に立つズルイ手だ)。つまり、私たちが水槽の中の脳であるかないかを証明することはできないのです。「私たちは水槽の中の脳である」とか「世界は神の心の中にある」とか「世界は客観的に実在する」とかは理論にとって冗長で無駄な前提(メタ言語)であり検討するに値しない(少なくとも理論の内側からは無駄)。この結果たどり着くのは(理論レベルの)反実在論*2であるはずだが、パトナム自身は相対主義を招くその結論からは逃げている。しかし、モデル論的論証によってたどり着く反実在論クリプキが「ウィトゲンシュタインパラドックス」で含意する規則は知りえないと似たものだとさえ感じる(私たちがどんな可能世界にいるのかは自分では分かりえない?)。誤解を与えないように注意をしておくと、極端な相対主義も極端な普遍主義もどちらも問題があるのであり、明らかに答えはこの中間にあるのだが、それがどのような中間地点なのかが分からないと全く意味がない*3
これからは本当はここを出発点にしないといけないと私自身は思っている*4。個人的には知覚の非概念性の議論につなげられると思っているが、実際には非概念性の議論は(その定義が一致さえしていないので)混乱しているだけのように思える(後は真理条件に関する議論も関連している気もするが切りがないので省略)。私自身は確率論的(行動主義的?)議論に逃げるのではなく(クワインの時代は認知革命以前でそれしかなかったのだからしょうがない)*5、言語と(知覚される)世界との関係をもっときちんと扱うべきだと思うのですが、その意見に賛同してくれる人はどれくらいいるのだろうか。個々の具体的な制約条件については経験的に科学で調べるしかないが、それ以外にも考えることはあるはずだが、それを考慮してくれる人は少ないような気がする。

*1:本当は、ルイスの可能世界意味論を用いる方が説明としては適切かもしれないが、面倒なのでここはパトナムの有名な議論に倣う

*2:正確には実在と観念の区別なんてつかないとする立場だが、この立場には名前がない

*3:要するに私が言いたいのは、世界にはより確実に分かることもあればそうでないこともあるという常識的な話にすぎない。または、世界は存在するかをいちいち問うのは(哲学者でもない限り)不毛であると言うことでもある

*4:実在論と観念論の対立から実在論唯名論の対立への移行。デカルトが否定したはずのスコラ哲学に大回りして戻ってきた感じ

*5:ただし工学的には確率やデータベースはかなり有効だと思います