酒井智浩「トートロジーの意味を構築する」のレビューとおまけ

トートロジーの意味を構築する ―「意味」のない日常言語の意味論

著者の言語学界への恨み節まで付き合わなければ、トートロジー文の言語学的分析として有用

これまでのトートロジ文に関する言語学的分析を批判的に検討し、その結論*1に伴って言語学の持つ哲学的前提をも批判している著作。言語学的分析はこのテーマに興味を持っていて専門的な議論にも馴染んでいる人にはとても参考になるだろうが、言語学への哲学的批判から生じた言語学界への恨み節には不毛感が漂うので、あまり律儀に付き合う必要はない。その辺を割り切れば悪くない本だと思う。
トートロジーとは「イチローイチローだ」のような主述で同じ語を繰り返すだけの、論理的には当たり前なだけの文だが、日常ではそれが様々な意味を持って使われる事(例えば今のイチローと昔のイチローとの比較)を言語学的に議論している。この著作の中間部分に当たるそうしたトートロジー言語学的分析は専門的な議論に則っていて問題ないのだが、その枠に当たる言語学への哲学的批判については哲学に馴染んでいる私でも(物足りないどころか)あまり参考にならない。挙句は著者の説や論文が日本の言語学界で受け入れられないことへの恨み節を長々と聞かされる羽目になってうんざりすることになる。言語学的分析については私に述べられることは少ないので、問題となる言語学への哲学的批判だけを論じよう。
まず困った事に、第二章のラディカル語用論とラディカル意味論という用語の使い方が間違っている。ラディカルの基準としては意味論と語用論とで互いに相手の領域を否定する程の説であることが基本となる(でなければラディカルと称する意義がない)。著者はラディカル語用論の例としてグライスを挙げているがこれは勘違いで、ラディカル語用論として典型的に挙げられるのは後期ウィトゲンシュタインやオースティンである。著者が第二章で説明しているのはトートロジーの語用論的分析であって、特にラディカルかどうかは関係ない。むしろ著者が最終的に支持する意味排除説こそがラディカル語用論に近い。またラディカル意味論についても、第二章で例として挙げられているヴェジビツカがグライス的語用論を認めているのなら、そもそもラディカル意味論の例として相応しくないように思う。また、トートロジーを多義性の問題とするのが意味論的分析(著者の言うラディカル意味論)なのだとしたら、それでは何でも説明できてしまうので科学的な説として問題があると指摘されているが、同じ批判は最終的に著者が支持する強い文脈主義(意味排除説)にも当てはまるのではないかという懸念がもたげてくるが、著者はこの辺りは誤魔化しているように思える。意味論と語用論に関する問題はややこしいのでもうちょっときちんと勉強してから議論した方がよかったように思う。
著者は言語学での標準的な意味論(文脈から独立した意味を基盤に置く説)を批判対象にしており、その過程で著者の元々の専門であった認知意味論(プロトタイプ説)が批判の範囲に入っていてそこは興味深いが、その割にもっとポピュラーな形式意味論が批判に晒されていないのは手抜かりに感じる。また、著者が支持する意味排除説(強い文脈主義)は哲学でも極端な立場であり、その擁護のために担ぎ出される野矢茂樹の相貌(アスペクト)説も独特すぎて、意味排除説を支持する根拠としては参考にならない。著者がよく参照しているレカナティについては、以前アマゾンにレビュー(「ことばの意味とは何か―字義主義からコンテクスト主義へ」)を書いたのでそれを参考にしてもらいたいが、レカナティは言語学については優れているが哲学に関してはちょっと心許ない。
トートロジー言語学的分析としてはしっかりしているので、専門的な議論が読める人なら参考になると思う。言語学への哲学的批判については、もし著者が本気ならもっときちんと哲学や言語学の関連する議論を勉強してさらに強力な批判をしてもらうのを期待するしかない。

  • おまけ

言語学者が哲学に無理解な事を著者は怒っているが、科学に無理解な哲学者だっていくらでも知っているし、どっちもどっちじゃないのか?科学的な問題に突っ込んでいったら哲学的問題に突き当たったという状況は、認知科学の哲学的問題に興味を持ってしまった私には共感できなくもないが、それにしても著者がたどり着いた先が単なる行き止まりじゃないか感は半端ない。学問への哲学的な批判に意義がないとまでは思わないが、それで単にもっともな哲学的な立場にたどり着くだけなら大して甲斐はなくて、その学問の前提を組み替える事で新たな研究領域が広がる程でなければあまり価値はない。残念ながら意味排除説は後者にはあまり見えない。
正直な所、著者の主張は理解できなくもないが、言語学で標準的な意味論を採用しているのは、ラカトシュ的な研究プログラムとして比較的に生産的だからでしかないという気がする*2。これは言語学が科学なのか哲学なのかの境界の問題であり、(実際にどうであれ)多くの言語学者言語学は科学であるべきと願っているだけの話なのではないか。

トートロジーの意味を構築する ―「意味」のない日常言語の意味論

トートロジーの意味を構築する ―「意味」のない日常言語の意味論

*1:トートロジーとは、同じ対象に対してXの二度目の命名を行う言語行為である」[p.341]

*2:ただしその生産性が価値のあるものか(単なる論文作成装置でないと言い切れるか)どうかはまた別の問題だが