フリートウッド「ハイエクのポリティカル・エコノミー」のレビューと長々とした批判

ハイエクのポリティカル・エコノミー―秩序の社会経済学

前半の前期ハイエクへの哲学的な検討は今一だが、後半での後期ハイエクの知識論は秀逸

批判的実在論というメタ理論的な立場からハイエクの社会経済学を論じた著作。著者も言うように経済思想史の著作というよりもハイエクを通して社会経済理論への理解を深めることを目的としている。前期ハイエクを哲学的に検討した前半はいろいろ問題があって読みにくいが、後期ハイエクについて知識論を中心に論じた後半はよくできている。ただし批判的実在論については軽い説明があるが、それだけでこれが意義のある説なのかは分かりにくい。
著者はハイエクを三期に分けて論じているが、著者のしているローマ数字での表記は分かりにくいので、ここでは初期・前期・後期と区別する。この本の前半は説明的な導入の後で前期ハイエクについてその哲学的な前提を論じているのだが、用いられている哲学用語の使い方があまりに独特過ぎて読むのに苦労する。超越論的実在論だの解釈学的基礎づけ主義だの、いかにも難解な哲学用語が用いられているのだけれど、それなりに哲学の知識がある人間からすると自己矛盾に感じるようなおかしな哲学用語の使い方には戸惑うしかない。哲学用語を弄んでいる感じの割に、哲学に馴染んでいないと分かりにくい抽象的議論が続くので読みにくい事この上ない。さらにこの前半は何のためにそうした議論が行われているのかがさっぱり見えないので理解のハードルがさらに高く感じられる。
後半は後期ハイエクを知識論を中心に論じているが、ここはとても面白く読める。後半は前半と違っておかしな哲学用語も少なくなり議論も分かりやすくなっている。ここまで読みすすめて初めて、前半の前期ハイエクの章は後半での後期ハイエクの考え方と比較するための準備だったのだと分かる。それが分かってから前半を読み返すと少しは分かりやすい。暗黙知と社会的ルールの発見が後期ハイエクをそれまでの考え方と区別しているのだと分かる。それらこそがハイエクの思想を根底から支える哲学的な基盤であったのだ。
後半のハイエクの知識論は推薦できるが、前半の哲学的議論には注意が必要だ。この本の前半はいきなり一読して理解できるものではないので、前半は軽く目を通してさっさと後半に進む方がお勧め。

この本の前半を中心とした長すぎる批判的検討

この本は少なくとも前半は相当に読みにくいので、私に出来る範囲で整理と批判をしてみたい。前半の基本的な構成は、第一〜二章が議論の準備、第三章で自然科学と社会科学を比較して、第四章で社会科学の目指すべき目的を示し、第五章で主流派経済学への批判、となっている。

哲学用語の扱いについて
まず超越論的実在論だの解釈学的基礎づけ主義だのといった哲学的な用語については、あまり真剣に考え込まなくてもいいように思う。理由は簡単で、少なくとも著者(下手するとその師ローソンも)は哲学用語を正しく理解しているようにあまり思えない。解釈学という言葉に認識論の用語である基礎づけ主義をくっつけているのは哲学の知識をもっていれば変だと感じるはずだが、ここにはあまり固執する必要はないと思う。問題は超越論的実在論という用語だが、これは鍵となる用語であるにも関わらず、その用語名だけで違和感を感じざるを得ない。超越論的という用語にはカントに始まりフッサールにまで続く伝統があるのだが、その伝統を知っていればこの用語法はおかしいと思うしかない。
きちんと説明しようとすると大変なので、そのおかしさだけを示そう。カントは超越論的観念論だと言われるが、これは主体に対して超越的に外界の存在を認める説と対照的な立場であり、経験的実在論も同じ立場を別の視点から言い表したものに過ぎない。ここで超越論的観念論=経験的実在論だと考えてみると、それに対応するように形容語を入れ替えると超越論的実在論=経験的観念論となる。超越論的実在論と言われても難解な哲学用語が含まれているので疑問を感じにくいが、これと同等に当たる経験的観念論となるとおかしさに気づきやすい。経験的実在論とは経験されるものがそのまま実在するものであることだが、これをそのまま適用すると経験的観念論とは経験されるものがそのまま観念的なものであるとなるが、これは超越論的実在論という言葉に込められたであろう意味合いとは全く異なる。この著作を読む限りでは、超越論的実在論は表層に対して深層構造を見出す科学的構造主義の考え方に似ている*1が、実際には深層構造(ルール)の上にさらに経験的(例えば知覚)と現実的(例えば行為)という二層が重なっているようだ。さらにこれらのすべての層に実在性を認めているのでその意味を込めて実在論と名づけているようだが、これでは連想的な名づけでしかない。超越論的実在論は最近の存在論的転回(p.133)だとされているが、同じような転回が生じた分析哲学での洗練された形而上学的な議論に比べると超越論的実在論の多層化された存在論は素朴な主張に見えてしまう。超越論的実在論が大して知られてもいないし影響力も小さいのは仕方のないことではないかと感じる。
ハイエクの社会科学論
次は前期ハイエクの哲学的検討についてだ。この著作では、前期ハイエクはカントのような主観的観念論だとされているが、この辺りも議論が錯綜している。どうも著者は観念(想念)という言葉に幾つも意味を込めていて、(1)感覚される観念(2)心の中で考えられる観念(3)社会に関する観念、と少なくとも三つの意味が込められている。カントの観念論と直接関係があるのは感覚される観念だが、ハイエクが外界の存在についての議論と関係があるようには思えず、その批判も観念論だからいけない!という馬鹿なマルクス主義の偏見と同じに見えてしまう。(2)と(3)に関してはもう少しややこしいのだがそれでも区別しないと問題がある。心の中で考えられる観念はそれによって行動が起こされる源として言及されているのに対して、社会に関する観念は一般の人が持つ社会観に関わっている。これらは完全に別々ではなく心の中の社会に関する観念が行動に影響を与えることはありえる。だが(認知科学系の用語で説明すれば)(2)で問題になっているのが信念や命題的態度なのに対して(3)は素朴理論の一種としての素朴社会学や素朴経済学だと思われる。しかし他方で、前期ハイエクに関する章を読んでいると、説明を目指す自然科学に対して、意味の理解を目指すべき社会科学における解釈学的な方法が議論されており、これがハイエクにおける主観的観念論の特徴と係わりを持っている。主観的観念論に込められた意味合いが多様過ぎて訳が分からない。さらに前期ハイエクには方法論的個人主義という特徴もあるのだが、文化理論(または理解社会学)を前提する解釈学と方法論的個人主義とがどう両立するのかはっきりしない。それにしても、たとえ主観的観念論としてこれらすべてを認めるにしても、こんなに大仰な考え方がハイエクを論ずる上で必要だったのかはあやしい(むしろ混乱の元)。これも超越論的実在論の多層化された存在論のためだけにあれもこれも取り上げてる気がしなくもない。
この著作の前半は議論が整理されていなくて、ともかく読みにくい。第三章から第四章にかけて自然科学と社会科学を比較して社会科学の特徴を議論するのだが、そんなにややこしい話ではないはずなのに議論を省略したり用語法が不適切だったりで面倒な事になっている。観察できる事実から規則的なパターンを見出し(ヒューム的法則)、そこから説明や予測を目指すのが自然科学なのに対して、社会科学はそのような規則を見つけ出して説明や予測を目指すのは無理なので理解を目指すべきだとする議論だが、こんな議論はディルタイの精神科学以降の伝統があって珍しい物でも何でもない。それなのに既に示したように主観的観念論なるものにいろいろな意味合いを詰め込みすぎて訳が分からなくなっている。
主流派経済学への批判
著者はハイエクが主流派経済学の実証主義を批判しているとしている。しかし、実証主義とは一般的には証拠に基づいているという意味だが、ハイエクの想定する主流派経済学(特にミクロ経済学)がそういう意味で実証主義的とはどうも思えない。「科学主義とは実証主義が社会科学に拡張されたものにすぎない」(p.89)と一度は書いているのに、その後も主流派経済学に実証主義という言葉を適用しづつけるのは混乱の元だ。実際にハイエクが批判する主流派経済学における経済人は実証主義とは関係がなく、単に理論上の前提にすぎない。著者はわざわざ議論を面倒に見せてるように感じてしまう。
もう一つ議論を面倒にしているのが、情報伝達システムの議論である。情報伝達システムとは価格メカニズムと同じだと早い段階で言われてはいるが、説明はしてくれない。かなり後になって「ハイエクが情報伝達システムを、多数の異なる主体が有する分散した知識ないし情報を価格シグナルに体現させることによって利用するシステムである、と考えている」(p.218)と明確に説明しているが、既に情報伝達システムに関する議論がかなり済んでしまってから説明し始めるのは意地悪にしか思えない。ただでさえ説明が遅れるのに、情報伝達システム=価格メカニズムに関しては議論もややこしいことになっている。社会的ルールにおけるルールと自然科学における法則との違いを説明していない不親切は脇に置くとしても、情報伝達システム(価格メカニズム)とふるまいの社会的ルールの関係については書き方が不親切で混乱しやすい。前半では情報伝達システム(価格メカニズム)の代替説としてふるまいの社会的ルールを挙げてるように見えるのだが、後半の第九章に入ると「情報伝達システムは、ふるまいの社会的ルールのネットワークにに埋め込まれている(p.212)とあって、前半と後半で言ってることが違っていて困惑する。
ここに均衡概念に対して見られる必死な否定が加わると事態は面倒な事になる。著者はハイエクは均衡概念を捨て去ったとしているが、実際には後期のハイエクのテキストにも均衡的な考え方は見られる(p.123-4を参照)。均衡は情報伝達システム(価格メカニズム)に見られる特徴であるが、著者はそれを何がなんでも否定したがっているように見えてしまう。そこで、後半での情報伝達システム(価格メカニズム)の話と均衡概念の否定を組み合わせるとおかしな事になるのに気づく。主流派経済学の考え方では、情報伝達システム(価格メカニズム)においては均衡概念によって価格決定がなされるのだが、著者は均衡概念に代わる価格決定のメカニズムを一切示していない。社会的ルールは経済人の道具的合理性仮説を否定して補うことはできるけれども、それによって説明されているのはせいぜい価格シグナルを受け取った側の行動や判断までであり、価格そのものの決定メカニズムまでは説明しない。直観的に考えても社会的ルールや理念型によって価格が決定されるとするのは変だ。実のところ、著者が情報伝達システム(価格メカニズム)とは何なのかをそれほどよく考えていなかったことが、このような空白地帯(価格の決定メカニズム)を生んでしまったように感じる。
こんな不首尾になった理由は、経済学を雑に二分して主流派経済学と制度派経済学に分けるとすると、制度派経済学にシンパシーを抱いている著者は主流派経済学をどうしても敵対視したいからだ。著者が主流派経済学の情報伝達システム(価格メカニズム)を均衡的に純化しようとする試みを批判したいのは分かるが、それへの対抗として逆にふるまいの社会的ルールを純化しようとしてるのだとしたら、それは不毛な試みでしかなかったようだ。
この著作の後半では、ハイエクにおける潜在的知識やコネクショニズムなどの認知科学的な話題が満載で、それについても語るつもりだったのだが、既に記事があまりに長くなってしまったので残念ながら今回は見送らざるを得ない。まぁ、面白い部分よりも問題のある部分の方がいろいろと語りやすいのはこの本に限った話ではないからしょうがないかな。
ハイエクのポリティカル・エコノミー―秩序の社会経済学

ハイエクのポリティカル・エコノミー―秩序の社会経済学

*1:レヴィ=ストロースが主体なきカント主義とも呼ばれることとも比較せよ。それでもレヴィ=ストロース構造主義は(神話する)精神を対象にしているが、超越論的実在論はそうではない