大賀祐樹「リチャード・ローティ」

リチャード・ローティ―1931-2007 リベラル・アイロニストの思想

ローティの著作をあまり消化できていない、大して分かりやすくもないレジメみたいな本

ローティ思想の入門書として書かれた本であるが、著者のローティ理解が未熟なせいでさっぱり分かり易くない。ローティ思想の背景にも意識して触れられているが、そうした背景となる学説史もローティ論と分離気味なので、学術書としても物足りない。それでも政治思想としてのローティ論はまだ読める方だが、言語哲学としてのローティ論は当てにならない。ローティの伝記部分は優れているが、当の本体はレジメの域をほとんど越えない。
渡辺幹雄のローティ論を読んで偏りを感じたので、こっちのローティ論に手を伸ばしてみたのだが完全に期待外れ。渡辺幹雄のローティ論の欠点は言語哲学としてのローティ論が弱い所だが、こっちのローティ論の言語哲学の解説はそれを遥かに上回るひどさだ。消去的唯物論の説明は変だし、セラーズの所与の神話批判についてもなに言ってるかよく分からない。クワインデイヴィドソンの説明も表面的な要約でしかない。挙句は終章で『「概念枠」や「理論負荷性」のような「フィルター」によって「現実」や「事実」は異なってくる』(p.323)とローティの解釈学を説明しているが、これではデイヴィドソンの概念枠批判を明らかに理解していない。残念ながら、このローティ論の言語哲学の部には落第点を与えざるを得ない。
それに比べれば政治思想としてのローティ論は著者の専門なせいかまだマシな方だが、それでも全般的にレジメ色が強くて、渡辺幹雄のローティ論に比べると明らかに見劣りする。あえて渡辺幹雄と比べての長所を挙げると、ローティ思想の背景となっている学説史(例えばプラグマティズム)に触れている点だ。だが、いきなり学説史の説明だけをだらだらと始めて、やっと学説史とローティ思想との関係に及んだと思ったら、大した議論もなく終わってしまう。ローティと学説史の関係に触れるだけで(ろくに議論もせず)満足してしまう、文字通りのレジメみたいな内容にはがっかりせざるを得ない。
この著作の渡辺幹雄のローティ論と比べての唯一の長所は、ローティの伝記について語られている第一章ぐらいだろう。残りはあとがきにあるように「入門者による入門の記録」=レジメでしかない。そのためにかえって初学者にも読みやすいもの…とは残念ながらなっていない。日本にはたまにレジメみたいな本を読みやすいと言う人もいるが、勘違いもいいところだ。現時点では私としては、同じローティ論だったらむしろ(偏りを承知の上で)渡辺幹雄「リチャード・ローティ=ポストモダンの魔術師 (講談社学術文庫)」をお勧めします。

ローティの道徳観は矛盾したご都合主義なのか?

この著作はアマゾンでの絶賛の割には正直つまらない内容だし、その上に自分は「哲学と自然の鏡」以外のローティはほとんど読んでないので、あまり語ることもないのだが、この著作でのローティとヒュームの道徳観の類似についての指摘を読んで思ったことがあったので少しだけ。
この著作の第九章でローティとヒュームの道徳観の類似について述べられている。ローティの道徳観は共感を基盤に置いているが、確かにそれはヒュームの道徳の感情説に似ている。ロールズの「ロールズ 哲学史講義 上」でもヒュームの道徳説はそう説明されている。しかし、同書でロールズはヒュームと対比される意味でカントの道徳観を取り上げている。ロールズはカントの道徳観を構成主義として理解しているが、それは後期ロールズの政治的構成主義へと受け継がれている。
ここで思い出すのは、ローティの後期ロールズへの支持である。後期ロールズはカントの構成主義的な道徳観を支持しているが、後期ロールズを支持しているはずのローティの採用する道徳観はヒュームによる道徳の感情説である。ローティと後期ロールズの道徳観は対立しているように見えるが、そこに矛盾はないのだろうか?

ついでに道徳心理学にも触れてみる

実はこうした道徳観におけるヒュームvsカントの構図は、近年の道徳心理学においても繰り返されている。つまりヒュームのように道徳を感情として捉える考え方と、(ハウザーなどによる)道徳に言語の考え方を導入して道徳文法を想定する考え方だ。有名になったサンデルの講義で最初に話題に挙がるのがトロッコ問題だが、あれは当時の道徳心理学の隆盛に合わせた話題だったのだ。そうした道徳文法説の源としてロールズの「正義論」第九節がよく挙げられる。「正義論」の頃の前期ロールズは道徳判断の一致に対して比較的に楽観的だったのでありそうな話である。後のロールズはそうした楽観を捨ててしまうが、本当になにもかも捨ててしまった訳ではない。それが後期ロールズのカント的構成主義だ。
道徳文法説はある程度の道徳判断の一致を前提としているが、カント的構成主義はそうした立場に対して中立的な態度に立つ。ロールズはヒュームのように道徳の感情説(ダマシオ的な用語なら情動説)ではなく、道徳に合理性を見出す。例えば「約束を守るべき」という道徳があれば、私もあなたも含めてすべての人が相手に約束を破られないで済む。こうした道徳は単なる感情(情動)ではなく合理性によって成立している。道徳文法もロールズの道徳観と同じく道徳に感情ではなく合理性を見出している点では前提は一致している。
ロールズは前期から後期に至るまで一貫してカントの倫理学を支持している。ただし後期にはカントの善論は放棄しているが、(構成主義のような)合理主義の点では実は一貫しているように思われる。カントの倫理学の中心は定言命法にあるが、ロールズ構成主義においてもこれを基盤にしている。しかし道徳文法が採用しているのは、トロッコ問題を見ても分かるように、条件付きの命法だ。ロールズと道徳文法では道徳の合理性について考え方が異なるように見えてしまう。私はここに根本的な見解の相違を見るべきなのかどうかについては、意見を決めかねるが、少なくともローティと道徳文法での道徳論の目的の相違が反映されているのだろう。
ちなみに道徳文法については、言語は自由に生成できるのに(音楽とも違って)道徳は(判断できるだけで)自由な生成は基本的にできないのでは?みたいな疑問もあるが、私自身がこの辺りは不勉強なのでもうやめておく。

リチャード・ローティ―1931-2007 リベラル・アイロニストの思想

リチャード・ローティ―1931-2007 リベラル・アイロニストの思想