中野剛充「テイラーのコミュニタリアニズム」の簡潔な書評と長い補足

テイラーのコミュニタリアニズム

テイラー思想の全体像を知る解説書としてなかなか悪くないが、食い足りない感も残る

日本では翻訳も紹介も貧しいテイラー思想をテーマにした日本では稀有な著作。共同体主義者や多文化主義者として有名なチャールズ・テイラーの思想を、その根底となる社会哲学の視点から全体像を描いている。テイラーを不当な攻撃から擁護するだけでなく(主に結論で)批判的な検討もしているので論述のバランスはそれほど悪くないが、テイラーの偏ったリベラリズム理解を著者もそのまま受け継いでいたりと問題も見受けられる。
ハーバート講義で日本では有名になったサンデルだが、その彼が昔ロールズ批判をする上での源泉となったのがチャールズ・テイラーの思想である。日本のテイラー研究の第一人者とも言える著者が万を持して書いたのがこの著作。日本では共同体主義者(コミュニタリアニズム)や多文化主義者としてしか語られないテイラーをより広い視点から論じた好著となっている。これを読むとテイラーが社会哲学への深い思索(人は対話的な存在である)によって共同体主義多文化主義を支持している事がよく分かる。政治家としてのテイラー(ケベック問題)や思想史家としてのテイラー(自己の思想史)を垣間見る事もできて、チャールズ・テイラーの多才さには驚かざるを得ない。また、著者がテイラーを批判的に検討する上でマルコムXを参照する議論には少し感動を覚えてしまった。
全般的にテイラー思想の解説書として良好な出来だと思うが、細かいところで違和感は残る。例えば『リベラリズムが「コミュニズム」という大きな対抗勢力を失って「リバタリアン」へと傾きつつある現在』(p.141)という記述は現在のリベラリズム理解として明らかにおかしく(リベラリズムリバタリアンが近づいてる??ノージックロールズ批判はなかったことに??)、その影響は本文全体に及んでおり、(渡辺幹雄を参照すれば分かるが)特にテイラーやサンデルのロールズ批判を真に受け過ぎてる感じは拭えない。とはいえ、この著作はロールズ批判に偏った日本の共同体主義理解を改めることも目的に一つとなっているおかげで、ロールズ批判への言及はそれほどしつこくないので許容範囲内で済ませられるのではないかと思う。
正直なところニッチな話題なので誰にでもお勧めするのはためらわれるが、テイラー思想や共同体主義に興味があるなら読んで損することはないだろう。

ここまでは(出す気のなくなった)アマゾン向けレビュー、以下はテイラー思想の私的解説

この本は始めに一読した時はそんなに悪くない本だなぁ(内容的なまとまりが甘いので褒める程ではないが)と感じただけが、レビューを書くためにあらためて検討しながら読んでみると、テイラー思想ってもっとすっきりと理解可能じゃないのか?と思うようになった。所詮はこの解説書だけを読んでの個人的な整理に過ぎないのであまり真に受けられても困るのだが、それをアマゾンのレビューに書くのはさすがに無茶なので補足として書く事にした。
一言で言うと、テイラー思想は「存在と時間」期のハイデガー哲学の変奏である。テイラーの社会存在論とは(フーコーの歴史存在論と同じで)ハイデガー的な存在論のことであって、アリステレス的な(伝統的)存在論のことではない。アリステレス的な存在論は存在するものを一般的に扱ったものだが、ハイデガー的な存在論は人間の存在を扱ったものなので、はっきり言って全然違う。このことはこの解説書を読んでもさっぱり書いてないし、おそらく著者自身がそのことに気づいていない。しかし、テイラーの用語や議論構成を考慮するとハイデガーの基礎存在論を下敷きにしたとしか思えない。
まずはテイラーの「超越論的条件」だが、これは「存在と時間」では超越論的議論がされているという学者がよくいることを思い出せば良い(だから存在論的条件と言い換えても構わなさそう)。ハイデガーでは周りの存在者との関係によって現存在(要するに主体としての人)のあり方が定まるのだが、テイラーでは周りの他者との関係によってその人のあり方(フレイムワーク)が定まる。テイラーは「内なる声」によって道徳性が生じるとされるが、これはハイデガーにおける良心の声にあまりに似ている。また、テイラーは人は「自己解釈的存在」だとしているが、これはガダマーに影響を与えたハイデガーの解釈学的な側面を思わせ、ただしハイデガーにおいては解釈はその外側の存在者に向かうのに対して、テイラーでは自己の内側に向かうのが特徴的だ。そして、テイラーの「真正さ」へ向けた自己実現は、ハイデガーの本来性の話(実存主義!)を思わせるし、テイラーの自然主義(物質還元主義)批判と精神主義志向もハイデガーの態度とかなり一致する。ここまで対応関係が見つかると、テイラー思想がハイデガー哲学を下敷きにはしてないと言われても説得力が感じらないぐらいだ。しかし一致するのはここまでだ。
テイラーは、人は「対話的自己」を持っているとしているが、これは他人との会話(世間話)を俗なものとして非本来性の側に分類してしまうハイデガーとは対照的だ。テイラーの「全体論個人主義」とは分析哲学における意味の全体論とは関係がなくて、言語が(単なる字義性ではなく)他者との関係によって意義を持つ(例えば挨拶)という語用論的な側面を強調している。ここでテイラー思想の両義的な側面が現れる。一方で他者との関係によって始めて言語は意味を持つとする全体論*1、他方で内なる声を解釈する強い評価を行なう個人主義、とが結びつくことになる(前者の皆と後者の私を直接に結びつけると私が消え去るか皆が私に合ってしまうご都合主義かでしかない)。だが、ハイデガーにおいては本来性と非本来性と別々に分けられる側面を、テイラーが結びつけることに成功しているのかはよく分からない。これはテイラーの政治論でも、(相対主義とは異なる)多元主義と(ナショナリズムとすれすれの)共同体主義との関係が明確でないこと類比的である(結論での悪の議論も参照。ある共同体にとって善なものが別の共同体では悪でありうる)*2。著者はこの相反する要素の和解に成功しているようだと言っているが、そこには欺瞞を感じる*3。そもそもテイラーはそれらを和解させる気があったのかどうか?
一つの可能性としては有神論がそうした和解を可能にしていという議論で、テイラーはそう言っているように見える部分はある(p.122)。だとしたらそれこそご都合主義の欺瞞だとされても仕方ないが、(有神論の可能性を認めつつも)単にそうでもなさそうだ。テイラーは主著「自己の諸源泉」で善に関して(イデア的な)客観主義でも(相対主義的な)主観主義でもない第三の可能性があると主張している*4。その第三の可能性がロマン主義表現主義によって示されているという。ロマン主義の芸術家のように「自らの内なる自然の声」を求めたり、表現主義的な芸術家(ジョイスプルーストモダニズム芸術)のように表現によって「人格的な共鳴」を起こさせたりする必要があるという。つまり(主観と客観の一致または私と皆の一致とのアナロジーで)ロマン主義では内なる自然と外なる自然との一致が起こるのであり、表現主義では表現がそれによって生じる喚起によって共鳴(によって一致)するのだ。しかし、内なる自然と外なる自然を一致させる試みは神秘主義そのものだし、表現主義的な言語とはもはや普通の人間の話す言語ではありえない(芸術は宗教の代わりたりえるのか?)。
そしてここで再びハイデガーに出会うことになる。テイラー自身が認めているように、そうした表現主義的な試みを行った代表的な哲学者がハイデガーだったのである。ハイデガーにおけるこの辺の事情は「マルティン・ハイデガー (岩波現代文庫)」のスタイナー自身による1991年版序文の前半で詳しく論じられている。テイラーが「自己の諸源泉」を出版した1989年当時でさえそれ(第三の可能性)を信じられたのは今からすると奇跡だが、時が経った現在でもそれを信じているのだろうか。風の噂では、この解説書が出されてから以降に出版されたテイラーの大著ではそうした楽観的な信仰は鳴りを潜めているようだ。ここは既に紹介したスタイナーのハイデガー論からの引用で終わらせよう(ハイデガーにおける存在をテイラーにおける善に置き変えてよう)。

後期のハイデガーにとっては、<存在>とは、われわれが信じこんでいる詩や芸術のうちに現前しているものなのである。だが、「輝き出る」ものがどうして『アンティゴネー』のコーラスのうちで、また「<存在>の真の存在としておのれを隠したり開示したりする」ものがどうしてヴァン・ゴッホの描く農夫の靴の絵のうちで、超越の言葉とは別の言葉で思索されたり語られたりしうるのであろうか。ハイデガーは言葉を見捨てたのである。彼はその生涯の活動のもっとも重大な段階で、それを見捨てたのだ。内在の均衡は無慈悲なのである。

テイラーのコミュニタリアニズム

テイラーのコミュニタリアニズム

*1:テイラーの全体論ロールズへのアトミズム(原子論)批判と対応しており、人は常に他者との関係の中にいるという超越論的条件を逃れられないことを主張している。テイラーの全体論は、その言語論においては語用論と構築主義を同時に含意しているが、この語用論と構築主義の組み合わせはサールの見解を参照すれば整合的に理解できる。ちなみに、テイラーは色々な哲学者の説をそうと言明することなく寄せ集めてる気がしなくもないし、それが彼の思想に(見ための深遠さにも関わらず)一貫性のないご都合主義を招いてる予感がしなくもない

*2:このテイラー解説書p.138では消極的自由というマジノ・ラインを守るバーリンとの違いが指摘された後で、テイラーの主著「自己の諸源泉」へのシュクラーのコメントが次のように引用されている「これ[『自己の諸源泉』]は、悪(evil)よりも懐疑主義(skepticism)を恐れる人々が住む道徳世界への、網羅的かつ啓蒙的なガイドである」(p.139)。リベラリズム共同体主義との最も大きな差異は(相対主義への態度によりも)懐疑主義への態度にあるように思われる。マジノ・ラインまで後退した後期ロールズは臆病なのではなく賢明なのである

*3:「テイラーの社会哲学における透明な一貫性の欠如は、むしろ単一の善がへゲモニーを握ることを回避しつつ、多様な善の共存を目指す近代社会の自己認識を目指すものとして、意義をもつように思われる」(p.144)と言えるとしたら、その理論が一貫していないという理由だけでどんな理論でも寛容な理論だということになってしまう。少し考えるだけでこれが無茶な話だと分かるはずだ。元々の自分の立場からあえて(撤退というより)後退した後期ロールズと比較せよ。この著作の補論を読むとこの辺の事情を著者は一応理解してはいるようなので、余計に頭が痛い

*4:p.124の解説では自然主義が主観主義とされているが、自然主義的誤謬を考えるとそれには無理があるように思う。むしろ逆では?功利主義と混同?