最近の身体化論のどこが問題なのか?

ここに身体化についての記事を書くのは構わないのだが、それをするには躊躇してしまう所もある。最近の欧米では身体化論(または4e認知)は流行り気味だが、日本ではその流行りはほとんど伝わっていない。最近の日本でも身体化論が流行ったかのような気配が生じたこともあったが、それはアンディ・クラークによる身体化論の古典的著作がやっと訳されたことによるのであって、最近の欧米での流行りとはあくまで違う。実は私は最近の欧米での(哲学的な)身体化論には批判的なのだが、問題なのはそもそも私が批判対象としている身体化論がそもそも日本では(学者も含めて)ほとんど知られていない点だ。つまり日本では、私は(正確な理解のための)紹介者とその批判者の両者を演じ分けないといけないという面倒くさい状態にある。
実はこういうややこしい事態は初めてではなく、このブログを書き始めてからも既に経験している。その典型は00年代に流行った進化心理学で、これは欧米では確実に流行ったと言えるのに日本ではあまりそうでもなかった。私自身は(少なくとも流行っていた形での)進化心理学には批判的だったのだが、そもそも日本では進化心理学はそれほど知られていなかったので、進化心理学とは何かを説明するところから始めないといけなかった。しかもややこしいことに、進化心理学に興味を持っている人であっても、モジュール論的な(正統派)進化心理学と単なる心への進化論的アプローチの間の区別がついていなかったりして、誤解を解くだけで手一杯になりそうなのでこの話題は避けていた経緯がある。まぁ、身体化論の場合はそうした誤解よりも(半端な)フォロワーの存在の方がよっぽど面倒くさいというのはあるが。

Kenneth Aizawa「The Enactivist Revolution」を読む

そうした状況の中で見つけ出した素晴らしい論文が、Kenneth Aizawa「The Enactivist Revolution」である。身体化論への科学的批判については過去に紹介した心理学者による批判「The poverty of embodied cognition」があるが、今回見つけたものは哲学者による論文である。Enactionというのは正確にはヴァレラらによる概念だが、この論文では身体化とほぼ同義で使われている。さらに最近の論者を元々のEnactivistと区別してEnactivistbと呼んで、この論文の目的はEnactivistbへの批判でなく解明であるとしている。とは言っているが、その内実は最近の(安易な)身体化論への批判になっている。
この論文は具体的な文献(特に3つ)を挙げてその問題を指摘している。批判点としては認知と行動の関係、延長された心、反表象主義の3つである。この内容に沿って記事を書き進めるつもり(ただし正確な要約ではない)だが、特に認知科学の基礎知識と言える認知と行動の関係や反表象主義について中心的に論じる。延長された心については、この論文の著者を有名にした論文(the bounds of cognition)のテーマではあるが、(扱われているのが変形バージョンであることや認知科学の基礎知識レベルの勘違いとは違うことも考慮して)独立した記事にするかもしれないのでここでは省略する。それから、一応注意しておくが論文の正確な内容は原典を読んで確認してください。

認知(cognition)と行動(behavior)は無関係な排他的概念ではない

まず最初に批判しているのが、最近の身体化論者には認知と行動の関係を正しく理解していない人がいるということだ。著者はチョムスキーのスキナー批判やニューエル&ショー&サイモンの古典的論文を挙げて、認知科学における行動と認知が別々の無関係な概念ではないことが説明されている。認知は行動を生み出しているのであって、科学哲学的は論ずると認知過程は行動を生み出すためのメカニズムなのだと言える。なので、身体化論者には「認知科学は認知でなく知的行動を研究すべきだ」と主張している人がいるが、認知科学ははじめから知的行動を(認知過程を想定しながら)研究していたのだからおかしな主張だ。としている。
実は日本にも認知と行動を別々に分けて論じる人がよくいて、過去にそういう心理学者を見かけたときには〜そんな用法は海外じゃ通用しないぜ!〜と思ったものだ。日本の遅れた心理学事情は脇においても、確かに認知科学批判をする人にはこういったタイプの批判はよく見る。その内実を要約すると(内面でなく)行動だけを見て研究しろ…ということだ。でもこれって認知革命に至る心理学の歴史を全然見てないのと同じことだ。行動だけを研究しろというのはさんざん批判されてきた行動主義に戻ることでしかないし、もちろん科学的心理学は心の内面を研究対象になどしていない(てかできない)。こうした勘違いはおそらく、ギブソンやヴァレラによる心の研究には実際の世界の中で動き回る身体が大事だ…という議論を安直に真に受けて、行動を研究すべきだという主張に単略化してしまったようだ。しかもややこしいのは、行動という言葉は使っていなくても実質は行動主義と変わらない主張もよくある。最近の身体化論と行動主義との距離は案外近い。
論文の著者は更に心身問題についても触れているが、認知と行動の関係だって機能主義を分かっていれば勘違いしないはずなのだ。心の哲学についての基礎知識がなくとも身体化論について堂々と語れることには呆れるしかない。

反表象主義(anti-representationism)はどこまで有効か?

この論文の最後に扱われているのが反表象主義だ。それは極端(radical)な身体化された認知科学に表象はいらないという主張だ。この主張の源となったのがロドニー・ブルックスのロボット論なのだが、こうした主張へ著者の批判が単純で、表象なしでうまく行った例がブルックスを始めごく少数しかないのが反論だ。更に付け加えると、ブルックス型のロボットが昆虫の知性を超えないという批判は以前からあった。それに近年の(身体化された)ロボティクスではニューラルネットワークを実装することも多いが、ニューラルネットワークは分散表象と言って表象主義に反しているとは言えない。それに反表象主義が例えばミラーニューロン説と(辻褄合わせでなく)どう調和させるのかも私にはよく分からない。
認知科学における表象主義批判は古典的人工知能への批判から始まっている。つまり古典的人工知能では、内部に世界についてのモデルを作っておいて、そのモデルで確認してから行動するという方法を取っていた。しかし、それではフレーム問題がネックとなって現実の世界ではうまく行動できない。そこで、内部にモデルを作らず実際の世界そのものをモデルとして使うという方法への転換が起こった。ここまでが二十世紀末までの状態だが、その後に表象なしのロボット開発が大成功したという話は聞いたことがない(お掃除ロボットぐらい?)。それどころか、(科学としての)認知科学では認知神経科学の影響もあってイメージやシュミレーションの役割が見直されているのに、なんでそんなに素朴に反表象主義の立場を取れるのか理解に苦しむ。

似非科学と化しつつある最近の身体化論(全てではないが)

哲学と科学の分離や哲学者の科学への無理解などは昨日今日始まった訳でもないので、そこまでは気にしていない。しかし、今回の件で問題なのは主に哲学者が科学的成果に無理解なままに身体化認知科学という形で科学という言葉を僭称していることだ。科学と無関係ならば哲学者が何を語ろうが(あからさまに非科学的でない限りは)どうでもいいのだが、今回はそうではない。しかも、その内容が(科学も哲学も込みで)不勉強から発しているのも始末が悪い。