キューブリック「博士の異常な愛情」(映画)

この前、深夜のテレビでキューブリック博士の異常な愛情」(映画)を見た。内容は、冷戦下における核兵器への恐怖を皮肉ったものだ。気づいた重要な映像技法の話をする。
この映画の基本は、画面の揺れる主観的視点によるドキュメンタリー的映像と画面の安定した第三者的視点による演劇的映像との対比である。この二つが対比されることで、後者の人工的な場面設定(コンピュータの並ぶ部屋、がらんとしてだだっ広い会議室)が強調される。こうした後者の静かな場面設定は後の「2001年宇宙の旅」のSF的場面も思わせる。こうした撮影技法の対比はリドリー・スコット「ブラック・ホーク・ダウン」でも存分に活用されていた。画面の揺れ動く戦闘現場の場面としっかりと撮影された司令部の場面の対比としてうまく用いられている。ただし、リドリー・スコットが現場の複雑さを強調するのに対し、キューブリックは司令部の不気味さを強調する。外では戦闘が起こったりして大変だと言うのに、室内ではそんなことにお構いなしに会議や対話が続く。しかもどことなく変人だらけ。何とか危機を回避しようとする大統領は冷静に見えるが、そもそも緊急性を把握できているのか怪しい気もしてくる。核戦争の危機だぞ、おい。というわけで、どうせならソ連壊滅とか、エッセンスを取られるとか、総統バンザイとか。だから、お前らも危ないんだって。そうした喜劇的な場面が、ドキュメンタリー的なリアリスティックな映像をはさみながら続けられる。いやみたっぷりの対比だ。物語で皮肉るだけでなく、映像でも皮肉る。そういう風に楽しめないと映画はつまらない。いかにも美しい映像とかセンチメンタルな物語とかいらないから。ドラマと映画の区別くらいしてくれないかなぁ(ちなみに、私は「真珠夫人」も「冬のソナタ」も夢中で見てしまった人間だ。そういうドラマを見て大笑いする某知識人とは違う。私はドラマも嫌いではない)。