ハイエクはグーグル的秩序の擁護者か?

ハイエクは有名な経済学者かつ社会思想家であり、全体主義への批判や自由主義の擁護のために自生的秩序なる概念を持ち出した*1。自生的秩序とは人々によって自然に作り出される秩序であり、ハイエクは分散した知識の考え方によって自生的秩序の発生を説明している。この点からハイエクをグーグル的秩序の擁護者のように指摘する人がいるが、これは誤りとまでは断定できないが少なくとも誤解を招く。むしろハイエクはネットに載せられるような文書化できる明示的知識への偏重を批判しており、客観的に明示化できない暗黙知(実践的知識)の重要性が強調されている*2ハイエクが分散された現場の知識と言っているときには暗黙知(実践的知識)が想定されているのであり、これはすべての知識や情報を集めて計算できるとする設計主義への批判にもつながっている。そして、ハイエクのこうした考え方は、今日の認知科学に見られる考え方─手続き記憶や分散化された認知─にとてもよく似ている。

なぜわれわれは自生的秩序に従って行動すれば、安定した生活が送れるのだろうか。それは実は、自生的秩序が、過去の人々の具体的な経験が暗黙知として制度の中に含まれているからである。ハイエクは次のように言う。

人間、動物をとわず、「経験から学ぶこと」は、まず第一義的には、推論の過程というより、成功に結びついたために一般化した実践を守り、広げ、伝え発展させる過程である──その理由は、実践が行為する人間にはっきりした利益を与えたからではなく、それが自己の属する集団の生き残る機会を広げたからである。この発展の結果は、最初は明確に表現された知識の形を取らず、ルールという形で記述はできるが個々人は言葉では言明することができない実践の中でのみ守ることができる知識となる(Hayek 1973 p.18 邦訳「法と立法と自由」27頁)

こうした点では、ハイエク行動経済学で問題になっている限定合理性(人の合理的判断力には限界があること)でさえ超えていることになる。まず始めに、その合理性批判にもかかわらず、限定合理性は明示された情報による計算可能性にまだ頼っているからである。暗黙知(実践的知識)は端的に計算可能とはあまり言えないし*3、用いられている情報が明示化されているとも必ずしも言えない。次に、限定合理性はあくまで個人が個人として行なう行為(例えば意思決定)に関わっているに過ぎないのだが、分散した現場の知識は人々が社会的に行なう行為に関わっている。人々はお互いに相手の行為(現場の知識)から学ぶのだ。だから現場の知識はネット上にはありえない。それは人のいるところ─地球上の至るところに存在するのだ。
こうした点から考えると、(その進化論への注目にも関わらず)ハイエクミーム論に近づけることは慎重にすべきであり、伝達対象が限定されがちなミーム論によってハイエクを理解することには気をつける必要がある。ハイエクの経験への重視を考えると、本人がその呼称を否定していようとも、保守主義者と呼ぶ方がまだ妥当に思われる*4

*1:ハイエク自由主義の擁護は十分に正当化されているかどうかの問題にはここでは立ち入らない

*2:だからネット上の情報として映像や音声を含めても話はそれほど変わらない。映像や音声から実践的知識を学ぶのは困難が伴う

*3:コネクションズムのことを計算していると言うならば、計算していると言えるかもしれない。むしろヘッブを参照していたハイエクはコネクションズムこそを想定していたと考えてよいが、ただし人工知能としてのコネクションズムと言うよりも生物学としてのコネクションズムと考えるのが妥当。少なくとも神経学者のエーデルマンはハイエクを評価している(「Hayek’s Sensory Order(PDF)」を参照)

*4:ちなみに、たまに混同している人がいるので一応注意しておくと、自由主義新自由主義が異なるように、保守主義新保守主義は同じではない。また、(フリードマンならまだしも)ハイエク新自由主義者ネオリベ)であるとするのは、ハイエクの自由放任批判を考えると問題があると思われる