パサージュは現代社会の叙事詩である--社会思想としてのベンヤミン論--
仲正昌樹の著作のベンヤミン観が面白かった。ベンヤミンとは、戦前のドイツの思想家である。仲正昌樹は、ベンヤミンのパサージュ論をポスト・モダニズムと結びつけて、あちこちを歩き回っているだけの弱い革命論と見ている。パサージュとは、ウィンドウ・ショッピングのできるおしゃれなアーケード商店街みたいなものだと考えればよい。飾られた商品を見ながら歩き回る人々。飾られた商品に夢を見てうっとりとする人々。これを革命的と見るベンヤミンは、ちょっとばかり先駆的な人物であった。
古代ギリシアのソクラテス以前といっても、一つではない。少なくとも大きく二つに分けられる。叙事詩の時代と悲劇の時代と。ギリシア叙事詩とは何か。それは様々なお話の集まりである。オデュセウスが次々と様々な体験をし、語る。ギリシア悲劇が(三部作であれ)ある結末へ向けて収束する物語であることとは対照的である。ベンヤミンの取り上げる話題はどれも叙事詩的である。バロック演劇における様々なアレゴリーの集まり、パサージュにおける様々な商品の集まり。こうした多用なるものの集まりこそが叙事詩の特徴である。
日本の戦後の高度成長期からバブル期にかけての時代は、叙事詩的な時代だったといえる。様々な商品にいろいろな夢を詰めた時代。例えば、大塚英志の取り上げる「りぼん」の付録やキティーちゃんなどのファンシーグッズ。家電製品や自家用車を含んでもいいが、実用品としてではない。あくまで雑誌や漫画に描かれるようにに夢を託す対象としてである。多様なる商品という物象化された夢の集まり。それ自身が叙事詩であり、ベンヤミンの語るパサージュと同じである。様々な商品を見ながら、未来の日本を夢見る。それを見るのが、テレビCMであれデパートであれ、どこであれ同じことだ。多様な商品を見ての眩暈、これこそが叙事詩的な体験である。*1
大量生産による革命。例えば複製芸術、写真や印刷物。絵画や彫刻のように唯一の本物だけが価値を持つのではなく、大量の複製品が価値を持つ。作品に近づける特権を持った特定の人たちの芸術ではなく、一般に開かれた誰もが触れることができる芸術。この考え方がどれだけ革命的か分かるだろうか。今となっては、映像やコンピュータ・グラフィックス(CG)などに代表される複製芸術は当たり前に認められているが、ベンヤミンの時代にはこの考え方は画期的だった。ベンヤミンは複製芸術を肯定した。それはベンヤミンにとって革命であった。しかし、その革命はうまく行ったのだろうか。残念ながら、否定的に答えるしかない。複製芸術に美学を見出したのまではよかった。だが、実際にはその受容においてはたいしたことなかった。複製芸術から本当の美を感じられるレベルの高い鑑賞者などほとんど現れなかった。実際には娯楽や逃避として複製芸術は利用されたに過ぎない。悪いが、映画の美を理解できる人がどれだけいるというのだろうか。写真も音楽も同じだ。趣味の高さを大衆が奪い取ることはできなかった。
戦前のニーチェ的革命がファシズムに終わったように、戦後のベンヤミン的革命はテロリズムに終わった。ここのところを自覚しないと痛い目を見る。ニーチェ的であれ、ベンヤミン的であれ、その趣味の高みに達することなどできる人はほとんどいない。実際に起こったのは搾取であり、安楽な堕落した生活にすぎなかった。そうした輝きからさえも疎外された人々が、堕落した社会に対して投げかけたのが、ファシズムでありテロリズムであった。テロリズムとは、オウム事件であり911テロである。それらを端的に批判するのは、それを全く分かっていない証拠だ。そういう人たちは、勝手に安楽な堕落した生活を送っててください。私たちは、ファシズムであれテロリズムであれ、その本質をつかみ取らねばならない。単純な非難をする人ほど、実際にその状況になったら、平気で他人を犠牲にするに違いない。私たちには、単に感情的でない、本当の反省があまりに欠けている。
ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)
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