文化相対主義と人類普遍主義との不毛なワナ

最近、ピンカーなどの著作で人間の文化を超えた共通性が叫ばれている。彼らは認知科学や生物学の人たちである。認知科学といっても正確には、脳研究や動物研究を経て進化心理学へと向かった系譜の人たちである。ちなみに、ヴィゴツキーブルーナーなどの子供の認知研究から文化心理学への系譜というのもある。認知科学ったって、一つにまとまってるわけじゃない。認知科学の代表なんていやしない。
認知科学発祥の地はアメリカなのだが、そのアメリカはボアズらの人類学の影響を受け、60年代の運動を経て、ポスト・コロニアルやカルチュラル・スタディーズへと至る、文化相対主義の伝統がある。なんてったってアメリカは多文化・多民族の国である。建前であれなんであれ、文化相対主義を掲げるのは当然である。もう人種主義や民族主義を繰り返さないためにも(今もあるとか突っ込まないで)。文化相対主義の基本は、どの文化も平等だということ。特定の文化が優越ということはない、というアメリカ的考え方でもある。しかし最近、別の意見が押し出されているようだ。人間には生まれつき備わっているものがあるのだと。といっても、人種主義や民族主義とはもう関係ない。そんなことを繰り返すほど馬鹿じゃない。細かい違いをあげて、違う違うと騒ぐのは間違っているのではないか。むしろ、人種や民族、文化や国家の違いを超えて、すべての人間は共通の性質のもとに生まれている。私はこの考え方を、人類普遍主義と呼んでいる。
なぜ人類普遍主義が生まれたのか。これは元をたどるとチョムスキー生成文法にたどり着く(源は探ると切りがないのでこのあたりで)。すべての人間には言語を理解できる能力が備わっていると言う理論。ピンカーも、チョムスキーの影響を受けた心理言語学者である。彼はどうも、違いばかりを強調する文化相対主義に嫌気が差していたようだ。一見は異なる文化でも、実際は共通する部分がたくさんあるのだと言いたいらしい。まあ、あまり違いばかりを強調するのも問題があるのは確かだろう。
それにしても、文化相対主義も人類普遍主義も、アメリカの正義にかなう考え方に変わりない。どの文化も平等であるとし、かえりみられない文化を研究して評価するのが、文化相対主義である。それに対して、文化や人種などの違いを超えて、どの人間にも同じように能力が備わっている事を前提に研究するのが、人類普遍主義である。しかし、研究の前提としてはまだしも、これを一般に押し出されると、エリートの国内向けイデオロギーにしかならない。どの文化も平等ったって、実際に研究を行なっている文化の方が、研究対象の文化より優位であることに変わりない。文化の記述は難しい。しかも、このことに悩み始めると研究は不可能になる。人間の共通性ったって、その共通性をどのように表すかはあまりに難しい。チョムスキー生成文法だって、英語中心だと非難された。そもそも文化心理学の登場そのものが、同じ研究でも別の国では違う結果が出てしまい、普遍的だといわれていた研究が文化に依存していたことから登場したものだ。しかし、こんな個別の批判よりも大きな問題がある。
それは、これらが現代社会への考慮を含んでいないことだ。当然アメリカの研究だから、資本主義や自由主義を疑うような研究なんて行なわないというわけだ。諸々のグローバル化に対して、文化相対主義も人類普遍主義も無力である事に変わりがない。文化相対主義は資本主義の拡大に対して言えることなどない。文化を守れなんて叫んだって、当の資本主義の強力さの前にはひとたまりもない。ちょっとした文化なんて、みんな資本主義の中に組み込まれてしまう。それに文化研究者のほとんどは、結局は傍観者に過ぎない。文化による抵抗など心もとない。人類普遍主義にも似たことがいえる。人類普遍主義は、現代社会とは関係ない。恐ろしいのは、新しい優生学である。旧優生学は人種主義や民族主義と結びついたものであった。人類普遍主義は個人主義的な考え方をするが、それが裏目に出る。新優生学は、優秀な遺伝子を持った人を生み出す。生まれつき優れた能力を持った人が社会で優遇される。もちろん、優秀な遺伝子は売り買いされ、有利なのは金持ちになる。金持ちだから、教育も優秀のはず。優秀な遺伝子とは何か、それは現代社会にとって有利な能力を持つことだ。恐ろしい社会だ。こんな社会では、社会にとって無能な人物も、突出した天才的な人物も、ろくな待遇は受けられない。凡庸な賢さこそが、現代社会では受ける。そして、みんなして資本主義をしこしこと忙しく動かし続けるだけの人生が残る。人類普遍主義は、現代社会に奉仕することになりかねない。
じゃあ、現代社会批判すればいいのかって。そんな甘いもんじゃない。批判だけしたってしょうがない。そんなのポスト・モダン思想で、いやってほど分かったはずじゃないのか。みんなして、現代社会批判ごっこしてるだけじゃしょうがない。日常としての文化論と基盤としての人間論の両方に目配せしながら、現代社会論としての文明論を取り入れる事は可能だろうか。人文学者は科学に疎いし、科学者は哲学的理論を理解できない。それぞれが難解な専門用語をちりばめて、内輪で楽しんでるようにしか思えない(ブログ上は特にそうだ)。いいかげん、海外からの輸入学問でお茶を濁すのはやめよう。外国から学べることは学ぶべきだが、そこから先に進もう。逆に、海外の成果をいっさい無視するやつも、ろくでもないやつであることが多いのだが。私たちにに必要なのは、現実を冷静に見つめる目と、きちんと整理されたまともな思考であるはずだ。