認知科学における哲学的問題の列挙

認知科学ではホッブスデカルトからの西洋近代哲学の伝統とその批判が繰り返されている面がある。それを理解しないと安易な罠にはまることになる。

  1. 動物機械論への批判:アフォーダンスで有名なギブソンは知覚解釈説を批判している。つまり、刺激が入って反応(解釈)が出てくるという入出力モデルを批判している。そして、この考え方のもとは動物を機械として捉えるホッブスデカルトからの西洋近代哲学の伝統にあります。とはいえ、それに代わる納得できる理論があるかどうかとなると疑問も多いが。
  2. 表象主義への批判:人の認識は規則や命題、イメージや概念といった表象から成り立っているとする考え方。意識されざる前提をすべて取り出すことができると言わんばかりの人工知能研究への批判として行なわれているが、近代哲学の伝統的考え方への鋭い批判ともなっている。まぁ、かといって非合理主義に走られても困ってしまうが。
  3. 心身二元論への批判:精神と身体は別だとする考え方。日常言語学派のライルは、例えば「賢い」と言う言葉を使うとき、一見その言葉は精神を指し示しているようだが、実際は現実に行なわれた行動を指して言われるとした。つまり、精神と身体が同じように存在するという考え方はカテゴリー・ミステイクであると批判している。その結果…
  4. 人間至上主義への批判:人間が動物よりも優れているという考え方は批判されざるを得ない。心身二元論が批判された後では、人間は動物が持っていない精神を持っているという考え方は成り立たない。人間はさして理性的ではないという研究結果も余るほどある。とはいえ、人間と動物に違いがないというわけではない。それを偏見を交えずに語れるようになれるかがこれからの課題である。
  5. (附)身体性について:たまに勘違いする人がいるが、認知科学や身体論で身体と言うときは、動物機械論におけるような機械のような劣った身体という意味では断じてないし(むしろ批判対象)、優れた武術家や職人が優れた身体性を持っていることは認めるが、だからといって一般の人に身体性がないという方向にも進み得ない。身体性とは誰もが持っているものであるが、それがどのようなものであるかが論じなれなければならない。近代が嫌っている身体性の持つ豊かさをいかに救い出すかが問題になる(でないと不毛な議論にしかならない)。