方法論的自然主義について個人的なアイデアをつぶやく

前回の記事で、前々から気にかかっていた近年の方法論的自然主義について書けたのはよかったが、固めの内容ばかり抑えたのでもともと持っていたアイデアの殆どを使えなかった上に文章そのものが固くなってしまった。せいぜい方法論的自然主義というと実験哲学ばかりになりがちなところに、自らの判断で科学哲学的な傾向も加えたことぐらいだ。哲学全体で科学的成果への参照は多くなっているので、これを書き加えることには躊躇しなかった。残りのアイデアは微妙な点もあったので、軽く書ける別の記事にしてました。

グランドセオリーから方法論的自然主義

近年の方法論的自然主義の隆盛のきっかけともなった実験哲学については、そもそもはそれ以前の哲学(分析哲学)に対する反抗という側面があった。それを理解するためには元々の分析哲学の状況を知っている必要があるが、日本では(残念ながら学者も含めて)それはほとんど知られていない。それである時、前に別の興味から読んでいた「アメリカ憲法理論の近年の動向―グランドセオリーの退潮―(PDF)」を思い出して*1、二十世紀後半の分析哲学をの傾向をグランドセオリーとしてまとめて、それに対する対抗として実験哲学を理解できるのではと計画した。しかし実際に記事に書こうとするとうまくまとまらない。その理由は簡単で、グランドセオリーとして想定している領域と実験哲学が跋扈している領域があまり重ならないせいだった。グランドセオリーとして私が想定していたのは形而上学心の哲学・政治理論・法理論あたりだった*2が、実験哲学の活躍領域は主に認識論や倫理学であり、これらを一つの論にまとめることに無理があったのだ。正確には様相理論についてのクリプキの直観が話題に上がることはあるので、両者で形而上学は重なる領域だが、それほど論じられる機会の少ないこのテーマだけでまとめるのはやはり無理がある。全体の流れとしてグランドセオリーから方法論的自然主義へという流れは正しい考えだと思うが、これを一つの流れとして描くのは私の手には余る。

近代哲学史を支配した2つの直観への批判の完成としての方法論的自然主義

方法論的自然主義は経験主義の一種とも言えるが、それは昔のクワインが批判していた元来の経験主義とは異なる新しいドグマなき経験主義だ。実際に方法論的自然主義の源としてはクワインの文献が挙げられることが多い。そこで、感覚だけに頼って真実を探る感覚データ説*3とも、人々の同意だけで真実が決まる構築主義とも、異なる考え方としての方法論的自然主義を説明できるのではないかと考えた。二十世紀の前半が感覚データ説の時代で後半が構築主義の時代だとすれば*4、今はまさに方法論的自然主義の時代と言える。
ところで、方法論的自然主義の代表である実験哲学は哲学者の直観を疑っているが、ここで言う直観は判断としての直観である。哲学では、直観とは直接に与えられたものという意味であり、主に2つの意味で使われる。一つ目は感覚としての直観であり、感覚は外部から直接に与えられるものであり、論理実証主義(や現象学も?)はこれに頼って哲学を築き上げていた。この種の直観信仰は所与の神話としてセラーズによって完膚なきまでに批判されている。もう一つの意味は既に示した判断としての直観であり、何かを知っていると言えるか?や善いことだと言えるのか?を判断するために頼りにされていた。判断としての直観とは考えるまでもなく判断できることに適用される点でやはり直接に与えれるものであると言える。つまり今や(元来の)経験主義を支える直観も合理主義を支える直観もどちらも批判対象となっている。実験哲学における直観批判としての概念分析批判は哲学者パピノーによる「SEPのNaturalismの項目(英語)」説明が見事である*5。ともあれ、近代哲学史の代表的な立場である経験主義と合理主義とを支える2つの直観が、結果としてどちらも批判されてしまったのだ。

判断の偏りとしての二重過程説との共通性

直観批判とは何なのか。それは哲学者でさえ何かしらの判断の偏り(バイアス)を避けられないということだが、これは認知科学で示されている二重過程説*6とも一致する見解だ。どんな人でも無意識の内に何かしらの判断の偏り(バイアス)を被っているのだとする多数の実験的成果から二重過程説が浮かび上がってきたのだが、これは実験哲学の直観批判とどこか似ている。まぁこれは実は当たり前の話で、実験哲学の祖の一人である哲学者スティッチが認知科学的な成果を元にして概念分析批判を始めたのだからおかしなことではない。
二重過程説における無意識とは過去に流行った精神分析の無意識*7とは全く異なり、きちんとした科学的成果に則っており、どんな人でも(まさに哲学者でも)その影響から逃れるのは困難だ。だからこそ方法論的自然主義が推奨されるのだ。

*1:SEPのNaturalism in Legal Philosophyの項目(英語)」も参照すれば、私の計画が無茶ではないことは分かるはず

*2:ちなみにグランドセオリーの説明には、その体系性に反対する反実在論や身体論的なもの(例えば徳倫理)も同時代のものとして含めようと計画していた。

*3:一般的にはセンスデータ説とか感覚所与説と訳される。現在ではデータという言葉が理解されてきているので、ここでは一見の分かりやすさのためにあえてこう訳した

*4:ちなみに、それとは別に物理主義(唯物論)は二十世紀を一貫して支配していたとも言える。それに対抗するようにいま勃興しているのが汎心論なのだ

*5:テクニカルな話になるので説明は避けるが、カルナップ文(還元)とラムジー文(定義)の関係が分かりやすく示されていてとても勉強になった

*6:ちなみに、語感が似ている二重継承説とは用語の性質が全く異なる。二重過程説はこれまでの多くの科学的成果を分類して名前を付けたのに過ぎず、それ自体が新しい発見ではない。であるが故に(多数の成果が関わるので)そう簡単に反証されるものではない。対して、二重継承説はそこまでの確実な成果に基づいているわけではなく、単にそう考えると説明に便利だよね〜程度のものでしかない。以前これらを単純に並べて比較している記述を読んだ覚えがあるので、一応指摘だけ。

*7:ここで精神分析の非科学性に触れる暇はないが、未だに平気で精神分析を信じている人を見かけると皮肉に感じてしまう。