サッチマン「プランと状況的行為」とエスノメソドロジーの本質

皆川満寿美「ラディカル・リフレクシヴィティとエスノメソドロジー」 (http://e-lib.lib.musashi.ac.jp/Elib/S1/005/001.html)。ネット上で全文が読めることが信じられないくらい、エスノメソドロジーに関する論文としては素晴らしい。ただし、実際の分析ではなくあくまで理論的な話なのだが。これを読んで、"超越論的特異点を外部に見出すやつも問題だが、自らを特権化して超越論的特異点に仕立て上げるのも問題じゃないか、どんな人間も所詮は有限じゃん"みたいな話も悪くないが、それは今回は置いておく。今回するのは、認知科学におけるエスノメソドロジーの方法論を用いた状況論的アプローチについての話である。

エスノメソドロジーについて

私も自信を持ってエスノメソドロジー分かりますとはとてもじゃないが言えない。学生時代には教育社会学系の授業や研究会に参加してエスノメソドロジー関連の論文はある程度は読んでいるし(私は心理教育系の出身なもので)、その後は認知科学におけるサッチマンに代表される状況論的アプローチも読んできてるので少しは分かると思う。少なくとも日本の心理学者みたいに言ってること分かんない、ということないはず。(そういうのはたいてい本人がよく理解してないことが多い。こちらの理解力の問題ももちろんあるが、それにしちゃエスノメソドロジーに関しての他分野の人の論考を私は分かるのだが)。
デザイン系の人に対して思うに、アフォーダンスに代表される生態学的アプローチには興味を持つのに、状況論的アプローチへの関心はあまり目立たない。エスノメソドロジーが難解なせいもあるが、それじゃもったいない。アフォーダンスだけでいいデザインが出来るなんて甘っちょろい(デザインの分野にもよるが)。デザインした製品は実際の社会の中の場面で使われることを考えたら、状況論的アプローチも知っておくに越したことはない。
エスノメソドロジーにおいて重要なのは、私たちの日常生活は当たり前の前提に満ち満ちていること。当たり前の前提なので私たちは気づき得ないが、実はそうなのだ。まぁ、異文化に接触してもそういうことは分かるが、その場合は文化のせいにしがちだ。エスノメソドロジー創始者ガーフィンケルは、私たちの日常生活をまるで異文化のように扱うことを考え出した奇特な人物だ。
初期のガーフィンケルが何を行なったかは置いとくにして、やっぱりエスノメソドロジーといえば有名なのは会話分析だ(相互行為分析と呼ぶことも多い)。人類学者サッチマンが「プランと状況的態度」ISBN:4782801262この方法だ。この著作でサッチマンは、いわゆる賢い機械(コピー機)の使いづらさを実際の使用場面での会話から分析している。実際の分析は本で読んでもらうことにして、ここではその分析を整理して著作を読みやすくしてみようと思う。で、できれば状況論的アプローチの問題も提出できれば万々歳だ。

サッチマンの実例分析を整理する

この著作では、初心者が会話相手と主に、機械の使い方が表示される賢いコピー機を実際に使っている場面が分析される。私も今までは何となく読んでいたが(前半の理論篇ばっかり読んでたせいもあるが)、皆川満寿美の論文を読んで、ここでの分析には実は二つの視点が混ざっているのでは、と思った。それは次の二つだ。

  1. コピー機とのやりとりに日常会話の法則を当てはめることによるミス
  2. コピー機に表示された言葉の実際の状況への適用によるミス

この二つが混じっていることでただでさえ読みにくい分析が余計に分かりづらくなってる気がする。
前者の「会話の法則」によるミスは小見出しからもはっきり分かる。「無反応は先立つ行為が未完了であることを示す(p.143)」「教示の繰返しは反復の指示か修復の指示かあいまいである(p.143)」(たまたま同じページだが、そもそもの分析自体のページ数が少ないのでしょうがない)。人は機械とのやりとりにも日常での他人とのやりとりの法則を普通に適用する(ネット上も同じだ。よく観察するとよい)。この場合は日常会話の規則だ。使用者にはコピー機の内部はみえないので、コピー機がうんともすんとも言わなければおかしいと思う(実は内部で処理中かも)。同じ命令を繰り返されたら、人が相手ならば言葉以外の情報もあるので、繰り返しの命令かやり直しの命令か分かるが、機械相手ではどうしようもない。このように、機械が人の日常的な規則に反するために使いづらくなっているといえる。
この程度の問題なら日常の規則に合わせてプログラムをしなおせば済む、と思われてしまう。しかし、本当の問題は次だ。これこそ、状況論と呼ばれるにふさわしい問題だ。
後者の「状況への適用」によるミスは分かりづらい。小見出しとしては「状況に埋め込まれた質問(p.130)」があるが、これだけなので分かりにくい。あえて言うと、ここで生じているのはデリダ的問題だ。コピー機による表示が利用者にどのように解釈されるかは分からない、それはその状況に依存する(機械による表示というエクリチュールが様々な状況に出没する)。設計者は表示に従いさえすればよいと思っているかもしれないが、そもそも表示に従うという行為が状況に依存した行為なのだ(状況には利用者自身も含まれる)。例えば、「カバーを開けてください」と表示されたとき、利用者はカバーの位置が分からないのかも知れないし、カバーの開け方が分からないかもしれない。教示どおりカバーを開けてるけど、それで何をやってるのか分かってないかもしれない。コピー機に表示された教示は実際の状況において利用者に解釈されるしかない。いやそもそも表示された教示は常に読まれているのかもあやしい*1。教示が読まれるかどうか自体がその状況に左右されるのだ。適切に表示さえすればよい、なんて甘っちょろい考えだ。

エスノメソドロジーの本質とは何か

さて、ここで最初にあげた論文に戻って、エスノメソドロジーという学問における問題を取り上げよう。この論文でエスノメソドロジーは日常(会話)の法則を見つける(表象する)のが本来の目的ではなかったはずだと言っている。

そしてガーフィンケル&サックスは、実際、エスノメソドロジーという社会学を、超越への誘惑を断ち切ったものとして考えていた。

ここでクリプキウィトゲンシュタインパラドックスISBN:4782800177かりやすい。「+」が「プラス」として使用されているのか「クワス」として使用されているのかは、その実際の適用だけを見ていても分かりえないと言っている。エスノメソドロジーは、会話分析(相互行為分析)から(会話の)法則を見出すべきではない。なぜなら(クリプケンシュタインの言うように)所詮は有限なる適当例からは普遍なる法則は知りえないからだ。エスノメソドロジーはあくまで実際の適用そのものにこだわるべきだ。そういうことだろうか。
サッチマンの例で見れば、「会話の法則によるミス」と「状況への適用によるミス」とは、「(日常)法則を適用する」による失敗と「適用から法則を知る」の困難さとに対応している。エスノメソドロジーの本来性は法則を導くことにはないはずだ。その点では、後者に含まれていると考えられる状況論の考え方は、エスノメソドロジーの本来のプログラムに近い。ただし、実際の分析ではこの二つの方法が混ざっているために分かりづらなっている。それを指摘するのがこの論考の目的であったともいえる。
ところで、法則を見つけられなきゃ科学じゃないじゃんとか、それじゃ適用例の集成が出来るだけじゃん、という意見もありうるだろう。ある意味それこそポストモダン思想の結論でもあるのだが。しかし、本当にただの事実の集成だけでいいのかという点にはまた別の論考が必要とされるだろう。ちなみにどうでもよい話だが、私自身は同じく会話分析を使っているなら、エスノメソドロジー色の強いサッチマンよりも認知科学寄りのハッチンスの方が好きだ。

プランと状況的行為―人間‐機械コミュニケーションの可能性

プランと状況的行為―人間‐機械コミュニケーションの可能性

*1:日本での投資業務システムでの桁の打ち間違いのエラー表示の無視によって起こった事件を想起せよ