チャーマーズの論文を読んで現代的な汎心論を自分なりにまとめる

私は長らく心の哲学に関心を持ってきたが、元々の問題意識(認知科学の科学性への疑問)がそれなりに解消したのと、最近の哲学者の多くが素朴な科学主義に陥っているように見えること*1などから最近は心の哲学への興味が失われていっていた。それがたまたまネットで調べ物をしていた時に最近の心の哲学における汎心論の議論を扱った日本語論文を見つけて久しぶりに面白いと思ってしまった。汎心論についての紹介については私が参照した論文*2が優れているのでそちらに任せるとして、私はそれから興味を持って読んだチャーマーズの汎心論の論文がきちんと議論をまとめていることに感心したのでそれを参考して私なりに改めてまとめてみたい*3

現代的な汎心論とは何か

(心身)二元論と唯物論(物理主義)の問題を探る

心の哲学にとって心身問題は根本となる問題だ。心と体がどのような関係にあるかは哲学史においてずっと問題になり続けている。心身問題における主要な立場には対立する立場としての(心身)二元論と唯物論(物理主義)とがある。この2つの立場への不満が現代において汎心論を復興させるきっかけを与えたと言える。まずはこの対立する立場へのそれぞれの反論を紹介することから始めよう。
(心身)二元論は心が体を動かすという常識的な考え方に基づいている。(心身)二元論に関しては、そもそも心と身体の間に直接に因果的な関係があるとしたらそれは物と心が別々にあるとする二元論だとは言えなくなる。世界中にある物は互いに物理的な因果関係にあるのであって、物としての身体に因果的な影響を与えるのは物だけである。よって、心的性質は物的性質に基づいているのであって、心という独立した存在があるわけではない。つまり、世界には物理科学によって明らかにされうる物質だけが存在するという唯物論(物理主義)が正しいことが導かれる。
ならば、唯物論(物理主義)はどうだろうか。一方で物理主義が認めるように世界には(究極の)物理法則があるはずだ。他方で任意の現象的な真実(例えば「私には意識がある」)を認めよう。前者の肯定と後者の否定を両立させることで意識を持たない哲学的ゾンビが理解できるはずである。ならば、(前者)究極の物理法則の肯定と後者(例えば私の意識)の否定との両立は形而上学的に可能なので、唯物論は間違っている。ここまではあえてチャーマーズの議論をほぼそのまま示してみたがもっと分かりやすく言い換えよう。究極の物理法則が私の意識を必然的に導く訳ではないが、それは私の意識という端的な事実に反している。よって、心を説明する上では究極の物理法則だけでは足りない。こうして世界には物的性質しかないとする唯物論(物理主義)も反論されてしまう。唯物論(物理主義)は現代においては有力な立場であるが、それでは意識の問題では行き詰まってしまう。そこで注目されているのが(二元論とも唯物論とも異なる)唯心論の立場である。

現代的な唯心論とは何か

心身問題を解消する鍵として物に心を認める汎心論に新たに注目が集まっているが、それはもはやアニミズムのような素朴な汎心論ではない。好き勝手にあちこちの物に心を認めるだけなら注目するに値しない。それに現在の哲学の基本的な潮流である経験主義や科学主義にあからさまに反する説には価値がない。より整合性を持った説としての汎心論こそが現代においては感心を持たれている。そうした整合的な汎心論とは(哲学史的にはブルーノやライプニッツにも遡れる考え方であるが)世界の究極的な基本要素(哲学的アトム)に原初的な心(経験)を認めようという考え方である。この考え方の長所は、あちこちの物に心を見出すような好き勝手を制限して、最小限の基本的な要素にのみ心を認めることである。石や机に心があると素朴に言っているわけではなく、基本要素がある特定の結びつき方をすると人の心のようなより高度な心が生まれるとされている。
この議論にある問題点を指摘する前に、まずは創発主義という立場を紹介しておこう。(心の)創発主義*4とは物がある特定の結びつき方をした時に限りそこから心が生まれるという考え方だ。例えば有機物が細胞として神経的に結びついた時だけに心が生じると考えればよい。
しかし、唯物論(物理主義)に基づいて創発主義を捉えた場合、元々の物(例えば有機物)になかった心的性質が創発によって無から生まれることになってしまう。ここでは物的性質と心的性質の間にに質的ギャップが生じていることになり、それ自体は説明すべき謎として残ってしまう。汎心論にも同じことが言えて、基本要素の持つ(原)心的性質とそれらが組み合わさることで創発したより高度な心的性質との間にはギャップがあることになる。ただしそれは物的性質と心的性質の間のような質的ギャップとは異なるのであり、これこそが汎心論の唯物論に対する有利な点ともされる。

物的性質と心的性質を一元化する

では、現代的な汎心論において物的性質と心的性質の関係はどのようなものだろうか。ここで大事なのは現在の哲学の潮流である経験主義と科学主義に反しない汎心論を構築することだ。つまり、現在の物理理論に反しない汎心論を展開する必要がある。そこで提示されたのがウィリアム・ジェイムスやラッセルによって考えだされた中性的一元論(ラッセル的一元論)である。つまり物には外側から観察的な外的な性質としての物的性質と観察不可な内在的性質である心的性質があるとすることだ。通常の物理理論が捉える狭い物的性質とは観察可能な前者だけを指しているが、物の持つ広い性質は両者を含んでいるとされる。このことによって究極の物理法則と私の意識の両立がありうることになる。ラッセル的一元論は、痛みを神経状態と同一視する(心脳)同一説のようにも見えるし、物的性質と心的性質を分ける性質二元論のように見えることもあるが、物的性質も心的性質もどちらも物の性質としている点ではやはり一元論的である。

汎心論のアキレス腱…組み合わせ問題

原心を持った基本要素が組み合わさると人の心のようなより高度な心が生まれるのだが、原心と心との間にギャップがある点では創発主義の持つ問題が受け継がれている。そもそも多数の基本要素の原心が集まってどのようにひとつの心へとまとまるのかは謎でしかない。この問題は組み合わせ問題と呼ばれ、汎心論に対する最大の反論ともなっている。

おまけ

チャーマーズの論文を元にしてかなり簡略化して論じてきた。元論文にはチャーマーズ自身の独自見解を扱った賞もあるが、決定的議論でも一般的見解でもないのでここでは省略する。また、チャーマーズがあまり問題にしていない話題に心的因果もあるが、これは決定論と自由意志の問題に関わる面倒な問題ではある。ラッセル的一元論ではたとえ決定論であっても問題がないので面白いと思うけど、問題の語り方が変わっただけ*5で基本となる問題は何一つ解決されていないようにしか思えない。とはいえ、形而上学的に見れば汎心論は唯物論に比べてそれほど遜色がないとは言えそうだ*6

*1:哲学的問題が科学的成果を参照するだけで解決できるのなら哲学者はもういらない。むしろ科学の事情に通じているはずの科学者から話を聞くほうがよっぽど有意義だ

*2:洗練された汎心論は心身問題解決の最後の切札となり得るか(PDF)」と「汎心論と物理主義(PDF)」の2つの論文がよく出来ているのでぜひお勧めします

*3:David Chalmaers「Panpsychism and Panprotopsychism(PDF)」を参照。ただしこの論文をそのまま要約するわけではない。著者の議論の流れの明快さには舌を巻くが、汎原心論に関する章は流れ上で特に必要ないと感じたので省略した。また素朴な汎心論であるアニミズムにも軽く触れておいた。

*4:正確には、創発主義とは低次の性質から高次の性質が生じることであり、高次の性質は低次の性質に還元できない場合を言う。例えば水素と酸素から水が生じた時に水の性質が元々の水素や酸素の性質にあったわけではない

*5:存在論的ギャップが組み合わせ問題になっただけ

*6:あくまでこれは形而上学に遜色がないという話であって、検証可能な科学的仮説を立てるための前提としては物理主義の方が未だ生産的なことには変わりがないと思われる