汎心論の哲学史をほんの少しだけ調べてみた

この前チャーマーズの汎心論概論の論文を紹介したけれど、チャーマーズ自身が現代の哲学で主流であるはずの唯物論(物理主義)を見限って、汎心論と(実体)二元論に見込みがあると言っているのに驚いた。唯物論(物理主義)を捨て去ろうとするのは意識のハードプロブレムで有名になったチャーマーズとしては仕方がない(?)のかもしれないが、それこそとっくの昔に捨て去られたはずの実体二元論を有望な選択肢に上げるのは不思議だ。チャーマーズ自身が指摘するように(実体)二元論には心的因果についての問題があり、それこそが(実体)二元論が放り出された理由であったはずだ。とはいえ、唯物論にも二元論にも汎心論にもどの立場にも深刻な問題があることを考えれば、安易に二元論が間違いで唯物論が正しいとは言い切れないのも確かだ。
私は哲学的な議論である論証にも興味があるが、他方で哲学史的な話にも興味がある。哲学史的な汎心論については日本語に文献がまだないので調べるのは大変だが、かなりいろんな哲学者が汎心論者として候補に挙がっている*1。ただ哲学者によって汎心論度に差があって、たとえばスピノザが汎心論だという話もあるが、スピノザが汎神論だとはよく聞くがどこがどう汎心論なのかは私にはよく分からない。私が素人なりに調べていて汎心論なのかなと思えたのは、ブルーノ、ライプニッツ、ウィリアム・ジェイムス、(一時期の)ラッセル、(おそらく)ホワイトヘッド(または弟子のハースホーン)ぐらいだろうか。私がそう思うようになった共通する特徴は皆、何かしらの形のパースペクティブ主義を採っていることだ。パースペクティブ主義というとニーチェが有名だが、それは生き物に限られたもののように思う。汎心論的な哲学者は物にもパースペクティブ主義を採用しているところに特徴がある。といっても、物に意識があるという話ではなくて、意識なき表象を認めようという事だ。それぞれの物にはそれぞれの視点がある考え方であるが、これをラッセルは中性的一元論と称しているが、ウィリアム・ジェイムスにとってはおのおのの視点があるだけで絶対的な超越的視点はないとする多元論として示している。ライプニッツが「モナトロジー」で街は様々な視点から眺められることとのアナロジーで語っているのもまさにパースペクティブ主義だ。個人的には、汎心論の魅力は心身問題の解決ではなくて、むしろパースペクティブ主義という世界観にあると感じる。全ての物がそれぞれの仕方で世界を眺めていると考えるのは私には面白い。
ちなみに、この前の記事では心の哲学から汎心論を論じたチャーマーズを扱ったが、Stanford Encyclopedia of Philosophyの汎心論の項目の後半は物理学(特に量子力学)の視点から汎心論を論じた記事になっていて、いわゆる心身問題からの接近とは異なる議論に触れることができる。