不毛な生得-経験論争
最近、フェミニズム系ブログや進化心理学系ブログで生得-経験論争を目にすることが多かった。正直な感想は「不毛」、お互いに議論がすれ違ってお話にならない。進化心理学系の人はフェミニズム系の議論に自然主義的誤謬だのと批判することが多いが、私からすると進化心理学系の議論だって相手の批判の本質を理解してないことに変わりがない。その点では、私はRape as an adaptation ? Coyne-Berryでのコイン&ベリーの批判に賛成だ(書評されている著作の紹介は訳書出現 人はなぜレイプするのか―進化生物学が解き明かすへどうぞ。とても丁寧な紹介で参考になります)。実は故グールドによる社会生物学批判*1に似ているのだが、これも単なる倫理的批判としてしか理解されなかった悲しい過去を持つ。
コイン&ベリーによる批判を強引にまとめると、
- その行動が直接な適応であると説明できないとき、それは進化の副産物だと言ってしまえれば、それは何の説明にもなっていない(ピアノの演奏もレイプも同様に進化の副産物だと言える)
- 妊娠可能でない少女や老女へのレイプの多さを無視するなど、解釈するデータの選択が恣意的だ
- 自慰、サドマゾ、獣姦など、繁殖適応性から説明できない性行動はいくらでもあるのに、それを説明する気はなさそう(レイプがこれらの性行動とは違うとはっきりと区別できるの?)
- そもそも進化心理学者の言っていることはそれこそが最適の説明であるとの実証が不可能だ*2
その通りだと思う。進化心理学が実証的と言う人もいるが、その実証性は(当の進化心理学者自身が距離を置く)社会科学の典型的な研究と同じレベルだ。データを持ってきてそれを一生懸命に解釈する。しかし、その解釈法にこそ問題が生じるのだが、進化心理学の人たちはこれをあまり意識しないらしい*3(ただし社会科学の人にも同じことは言える)。
以前、進化心理学と比較認知科学とは違うと言う指摘があったが、私もそう思う。私自身は、心理学(または認知科学)に進化論の考え方を取り入れることには全面的に賛成だが、よく目にする進化心理学のやり方には違和感を感じる。それに比べて比較認知科学では地道に動物による実証実験をする。その結果する話も、動物に心の理論は存在するかとか動物に意識は存在するか、といった人間とその他の動物との比較レベルの話であり、あまり自然淘汰や繁殖適応性のような大きな話には走らない*4。まずは人間とその他の動物との違いを議論する方が先じゃないのか。進化心理学はもともとテュービー&コスミデスによる4枚カード問題への解釈(「裏切り者検知装置」)から盛んになったはずだが、生得-経験論争に慣れてないうぶな(社会)生物学系の学者が参入したことで議論が極端に走ってしまったような気もする。「やわらかな遺伝子」ASIN:4314009616 みたいな良い啓蒙書もあるだけにこれは悲しい*5。まあ、アメリカは合理主義的な文化の国だから進化心理学的な説明にはまる人が多いのはもっともだけど。
*1:ただし全面批判ではない、むしろ褒めてる(誤解するな)。主に、同じ議論を人間に当てはめる時の問題点を指摘している
*2:ただし、私に言わせれば、その点では進化心理学者も社会科学者も同じ穴のムジナだが
*3:問題は進化の過程がどのようなものであったかであり、それを全て合理的に説明できるのかは考える必要がある。ちなみに、この点から日本でもよく見かける進化論批判者を論破するのは簡単。だから、争点は進化の過程なんだって!
*4:しないわけじゃないが、進化心理学のような全面的に合理的な説明には走らない。マキャベリ的知性のような示唆レベルが限界
*5:ただし、この本の欠点は生得-経験の対立を発生レベルの話で解決してると思い込んでいることだ。ピアジェやヴィゴツキーに代表される発達レベルの話は甘い。その結果として本来の生得-経験論争はやっぱり解決していない。まぁ、あっさりと解決できる問題なら誰も苦労しないが。ちなみに、私自身は「生命的-社会的」という新しい対立を構築することをお薦めするが、この話はかなり長くてややこしい話になりそうなのでやめとく