認知科学の中間的な立場

私が感じる認知科学の魅力の一つは、その立場(パラダイム)の中間的なところにある。(認知科学がまだなかった)認知革命の真っ最中のころ、一方に当時の心理学で主流であった科学的厳密さの代償に意味を追放した行動主義があり、他方に人間性心理学のような人生の意味で充満した人間主義ヒューマニズム)があった。それに対して、認知革命の意義はそのどちらでもないもう一つの道、科学的でありながらも(意味のある)冷たくない方法、を示したことにある。
いまでは行動主義や人間主義をあからさまに採用する人は少なくなっているが、にもかかわらず、実はこうした認知科学の中間的な位置は最近でも変わっていない。一方にあるのが脳科学*1分子生物学に代表される還元主義*2であり、他方にあるのが熱い政治的意味の詰まった構築主義*3であったりする。科学的厳密さを求めるなら還元主義を採る方が妥当だし、分かりやすい意味を求めるなら構築主義を採る方が話が早い。しかし、こうした点からも認知科学(機能主義)*4は中間の立場に立つ。還元主義の持つ冷たい厳密さとも距離を取り、構築主義のような基準なきおしゃべりとも異なる。実証的でありながらも(議論の余地が多いので)純粋な科学としてはまだ微妙なところが残る認知科学が私にはむしろ魅力に思える。還元主義的な研究のように容易に蓄積が効かないし、構築主義的な議論のように様々な応用も効かない。でもそれぐらいの欠点が何だというんだ。認知科学のように自由の位置を(空白部分としてそれなりに)認める科学なんてそうはない*5
だからこそ、俗流クオリア論のような怪しい神秘主義やナゼナニ話に陥る俗流進化心理学のおしゃべりに批判的にならざるを得ない。これらは認知科学を誤解させる働きしかない。認知科学に関連した良質の著作がもっと出てくれればよいのだが、日本ではなかなかそうならないのが残念だ。
というかさ、認知科学って(おそらく現代思想と共に)カント以降に始まる近代的エピステーメーフーコー)の現時点における到達点(臨界点?)なんだから、もうちょっと理解されてもいいんじゃないか、というのは私の勝手な思い込みなのだろうか。

*1:わざと神経科学とは書いていない。脳科学より神経科学の方が意味が広い、と私は認識している

*2:分子生物学におけるエボデボなどの複雑系や自己組織化に関連した新しい領域もあるが、ここではとりあえず無視。本文では、話をややこしくしないためにわざと話を戯画化している

*3:ただし構築主義の源ともされるフーコ−やラトゥールを読んでも、彼らが巷で言われる構築主義と同じとはあまり思えないのだが

*4:還元主義も構築主義も本文では戯画的に説明したのだから、機能主義も戯画的に説明しないとずるいかもしれない。おそらく戯画的な機能主義とは強い人王知能のことだろう。このような機械論的な機能主義では(物質へではなく)計算への還元が行なわれるのでそれはそれで問題がある。本当は還元主義と構築主義と機能主義の全てを弱い形で定義してその関係を説明する方が妥当だが、それは上級篇の議論なので話がかなり面倒くさい

*5:ちなみに、哲学者のデネットは還元主義と機能主義との二束のわらじを履いているが、明らかに無理があって足並みは揃っていない。創発による穴埋めで満足できる人はそれでもいいけど…