アルチュセール「マルクスのために」
今となってはマルクス主義の哲学としてよりも社会科学の哲学して読む方が面白い
アルチュセールはマルクス主義やフランス現代思想の衰退と共にあまり読まれなくなってしまったが、実は余計なブームが終わった今こそ純粋な読解がなされる価値のある著者である。知の欺瞞を含め、流行に乗るばかりじゃ能がない*1。
この著作に収録されている論文のテーマは大きく二つに分かれる、認識論的切断と重層的決定だ。認識論的切断の論文の方が読みやすいが、残念ながら今となってはあまり価値がない。晩年のアルチュセール自身がマルクスの認識論的切断を否定している。(お世辞にも翻訳が分かりやすいとは言えない上に)あまりに理論的で難解であろうとも、重層的決定の論文は今でも十分に価値を持っている。読むべきはこっちだ。
正直なところマルクス読解としてはあまり期待しない方がいい。実際に多くの批判があるし、当のアルチュセール自身が晩年になってそれを認めている。マルクスに触発されたアルチュセールの哲学として読むのが今となっては妥当だが、ひとつだけ参照すべきマルクスの論文がある。「経済学批判序説」がそれだ。アルチュセールはほとんどこれだけによって独自の理論を作り上げている。アルチュセールの論文が分かりにくいならまずマルクスのこの論文を読む方がお薦めである。アルチュセールの言いたいことが素材の形で含まれている。アルチュセールはそれを理論化しただけだが、それこそが注目すべき成果だ。
しかし、ある意味でアルチュセールはマルクスに沿っている。マルクスの経済学がメタ経済学であったように、アルチュセールの哲学はメタマルクス主義として意図されていた。「資本論」の副題が経済学批判であることがそれを示しているが、アルチュセールがしようとしたこともそれに似ている。マルクス主義に代表される通常の社会科学の思考法に対してアルチュセールが提出したのは社会を全体としてみる全体論である。思考法を転換せよと訴える点ではアルチュセールとマルクスは似ている。
しかし、このような傾向(理論へのメタ志向)はアルチュセールだけに見られることではなかった。まずフーコーの仕事はアルチュセールの理論的成果に則りながら(批判的に)なされたものだ。他にも、ラカンはメタ精神分析だし、デリダはメタ哲学(脱構築)だし、ルーマンはメタ社会学だし、そもそも(現代思想の源である)ハイデガーだって通常の存在論に対するメタ存在論だ。こうした大陸系だけでなく、英米系でも原子論から全体論へと言う形で哲学での似た成果は出ていたのだ。ローティも指摘するように大陸系と英米系を分離させて考えるのは不毛な考え方だ。
アルチュセールは国家のイデオロギー装置や唯物論の地下水脈も有名だが、それもやはり構造主義期のアルチュセールを知ってこそ面白い*2。正直言って、構造主義期より以降の方が読みやすいのだが、それだけで済ますのはとても軟派だ。都合のいいところをつまみ食いするのもダメとは言わないが、私としてはもっと硬派に読むことをお薦めする。でなければ、哲学なり思想なりを勉強する甲斐がない。哲学や思想とは思考法を身につけることに意義があるのだから。
- amazonのレビューのために書いた文章の未省略版
- 作者: ルイアルチュセール,Louis Althusser,河野健二,西川長夫,田村俶
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 1994/06/01
- メディア: 新書
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