なぜアンケート調査は認知科学の研究にはならないのか?

アンケート調査は認知科学の研究にはなりえない。アンケート調査と言っても、企業がよくやる消費者に適当な質問に答えてもらうようなものというよりも、心理学や社会学での尺度(例えば好きから嫌いまでの間を5段階に分けてそこから選ぶようなタイプの質問の仕方)を用いた質問紙調査のような科学的調査のことをここでは指している。テレビや雑誌などでよく見かけるアンケート調査は標本抽出(つまり聞いた相手が偏ってないか)などの問題をよく考慮することなくむやみに一般化することなどが多くて当てにならない。
しかし、学術的に行なわれるアンケート調査(むしろ質問紙調査と呼ぶ)の場合は、様々な問題が考慮されて、何が妥当と言えて何が言えないかが考慮されている。実際にはアンケート結果の(統計的)解釈は機械的に一義にできるわけじゃなくて、いろいろな解釈が可能なのだが、それはここでは問題にしない(このテーマを扱った著作は多い)。ここで問題にしたいのは、学術的なアンケート調査が科学的であると言えるにも関わらず、これが認知科学の研究とは言えないどころか、認知科学の視点からはむしろ研究として怪しくさえ思えることだ。正確には認知科学で質問紙が一切使われないわけではないが、いわゆるアンケートを配るタイプの一斉調査は認知科学の研究にはなりえない。それはなぜかを問うのが目的だ。

認知科学の研究法とは何か

学術的な研究にはいくつかの方法がある。認知科学で典型的なのは実験やシュミレーションであり、それから観察(参与観察を含む)もよく行なわれる。文献研究は認知科学ではあまり一般的ではない(皆無ではないが)。ここで問題にしたいのは調査である。調査といっても、ここで問題しているのは質問紙調査(要するにアンケート調査)であって、考古学のような調査は別に扱う。つまり、認知考古学は認知科学の枠内にありうるのに、質問紙調査はなぜそうとは言えないかだ。ここには認知科学の研究プログラムとは何かと言う重要な問いが隠されている。
認知科学の考え方の基本は機能主義だ。これを理解しないと認知革命の意義は分からない。機能主義の基本は外的表れ(行動)から心的状態を想定することだ。実験は典型的に機能主義が当てはまる。実験では人の行動(とその帰結)を見て心的過程を推測しているからだ。観察も人の行動を見て心的過程を推測しているのではあるが、実験と違って行動の原因が分かりにくいので心的過程の推測には困難も伴う。ちなみに、言語学で用いられる文法性判断などは、表面的にはアンケートっぽいが、実質的には実験と同じ効果を持つ(この話はここではしない。後に出る認知考古学の話も参照)。
認知科学の研究でも力学的アプローチのように心的状態の想定に反すると思われる考え方もあるが、実際に起こった行動を直接に見ている点では実は認知科学の基本的な考え方につなげることは可能だ(これを主題にするとややこしいのでここでは扱わない)。しかし、質問紙調査は重要な点で認知科学パラダイムに反する。質問紙調査では為された行動(答える)の結果である質問紙だけを(統計的に)扱うのだが、そこでは質問紙に答える心的過程が問われることはないどころか、むしろできない。極端な例を出すと、質問紙に不真面目に答えたとか大嘘を書いたとかを考慮できるわけではなく、あくまでそこは回答者の良心に頼るしかない。その時点で問題はあるが、この問題を度外視してもまだ決定的な問題が残る。
同じ調査でも認知考古学の調査と比べてもよい。考古学でも人の行動を直接調べることはできないが、 過去の行動の結果である道具や美術品などの人工物からその行動を推測し心的過程を問うことはできる。認知研究に参与する考古学でも言語学でも(言語や人工物の)内容よりもむしろ構造に注目している点に注目せよ(たとえ内容を見るとしてもあくまで構造と結び付けられる)。アンケート調査は内容だけに依拠しているから問題になる。考古学は認知科学の研究としては異端気味だが、それでも心的過程を問うことを何とか可能にしている部分がある。質問紙調査にはそれが全くない。
質問紙調査は文字通り行動の帰結しか見ていないが、質問紙の結果から心的過程を推測できるかと言えば、多分それは無理だ。でなければ、なぜ認知科学プロトコル分析のようなややこしい方法をとらなくてはいけないかが分からなくなる。プロトコル分析の基本は何かをやりながらしゃべらせる方法であり、そうすることで余計な心的過程を省く努力をしている。質問紙調査ではそのような努力はそもそもにおいて不可能だ(質問紙を実験の中に埋め込めば別かもしれないが)。質問紙調査は余計な心的過程(特に意識)があまりに入り込みすぎてしまう上に、いわゆるアンケートのような一斉調査では研究者の介入が不可能で何も制御できない(実験のように比較条件もない)。そして、これはその質問紙の持つ一貫性や妥当性とは独立した話だ。認知科学から見ると、質問紙が何を測っているかはかなり怪しい。本人の報告と実際の行動が異なることが多いのは、認知科学的な研究からも分かっていることだ。

結論

よって、いわゆる(特に尺度による)アンケート調査そのものは認知科学の研究にはならない*1。なぜなら、それは心的過程を知る手がかりには不適切だからだ。むしろ、科学的な厳密性で劣るとされる質的研究の方がよっぽど認知科学の研究になりうる。認知科学的である基準は確かにあるだろうが、少なくとも科学的厳密さは必ずしも認知科学的であることの基準にはならない。認知革命がもたらした長所は、科学的な厳密さにあるのではなく、心的過程に迫る方法(とその多様性)にこそある。

*1:ただし、補助的にアンケート調査が使われることはあるかもしれないが、少なくともアンケート調査が研究の中心に来ることはあまりない