マルクス・ガブリエルはどんな存在でも認める都合のいい欲張り存在論者か?

去年に「いま世界の哲学者が考えていること」を読んで興味を持ったマルクス・ガブリエルについて記事に書こうとはずっとしていたのだが、ネットで調べて考えた結果として私にはそれほど興味が持てなくなり書く気が失せていた。以前までかろうじて持っていたインターネットへの幻想もすっかり失せて、インターネットは単なる日常の一部としか思えなくなった今となっては、わざわざ良心的に丁寧に説明するネット記事を書くのも馬鹿らしくなったせいもあってますますやる気は失せていた。それでも何も書かないでいるとモヤモヤが残ったままなので解説でなくただの紹介と感想程度なら書いてもいいかなぁ〜と思えてきた。

ネットにある論文としては「新実在論とマルクス・ガブリエル」(PDF)「なぜ今「実在論」なのか?」(PDF)がお勧めなのでそれを読んでもらうとして、あとはただの私の感想になります。

『いま世界の哲学者が考えていること』はいろいろツッコミどころは多い*1が、現在思想系の読み物としてはそれなりに面白く読める。現代思想系の残党がきゃっきゃ騒いでるものとしては既に思弁的実在論があってちょこっと調べたことがあるが、どうしても昔の東浩紀が言うところの否定神学システムにしか見えないし、であるがゆえに不毛としか思えない。それに比べれば、同じ実在論と呼ばれていてもマルクス・ガブリエルの新実在論のほうが興味深そうに思えた。そもそも、マルクス・ガブリエルは思弁的実在論を批判しているので同じく実在論と称しているからと一緒にしてしまうのはどうかと思う。というわけでマルクス・ガブリエルについて調べたのだが、結論としては哲学史家としては天才的かもしれないが哲学者としては物足りないと感じた。
マルクス・ガブリエルはもともとは後期シェリングの研究で有名だったのが、一般向けに書いた哲学書である「なぜ世界は存在しないのか」がベストセラーになって一躍有名になり、日本でも注目されつつある。しかし調べてみると確かにドイツではベストセラーになったかもしれないが英語圏ではそれほど話題になっていないように感じる。マルクス・ガブリエルは分析哲学にも目配せしているだけにこれは注視すべき事実だ。これまた結論を先に行ってしまうと、マルクス・ガブリエルは分析哲学をもう少しきちんと勉強したほうがいいんじゃないかと思う程度には議論が甘いと感じた。

もうちょっと詳しい感想を言うと…

マルクス・ガブリエルを有名にしたのは書名からもうかがえる「世界は存在しない」という考え方だ。一見すると奇妙な考えな気もするが、中身を知るとそうでもない、一言で言えば「世界は物のように存在するわけではない」ということだ。詳しくは論文を読んで欲しいが、この考え方はギルバート・ライルのカテゴリーミステイク「心は体のように存在するわけではない」と議論が同型なので私には特に目新しい議論をしているようには思えなかった。マルクス・ガブリエルの反実在論という用語法が分析哲学の用語法と微妙にズレがあることはとりあえず脇に置くにして、マルクス・ガブリエルが問題としている形而上学構築主義の分離を見ていると、その問題意識は理解できなくもないが、あまり内実のある議論とはどうしてもあまり思えない。マルクス・ガブリエルが形而上学と呼んでいるのはおそらく分析哲学で言うところの物理主義を指しており、物の存在しか認めていないとされる。それに対して、構築主義はそれぞれの心の中にあるとされるものしか存在しないとされ、いわゆる(思弁的実在論を含む)現代思想が取る立場とされる。マルクス・ガブリエルはどちらの立場も間違っているとして、両者で存在されるとされるものはすべて存在すると主張する。
これまた詳しい説明は論文に任せるとして、唯物論的に存在する物も観念論的に存在するものもどちらも存在するとする存在論は、一貫した納得できる理論が提示されない限りはただのご都合主義の欲張りな存在論でしかないのだが、紹介論文を呼ぶ限りではその懸念は当たっているようにしか思えない。だいたい心の中の存在というのが分析哲学に言うところの志向的対象でしかないとしたら、実際の物理主義者はそれを直接的に否定するとは思えない。ただ物理主義者は志向的対象を物理的対象と同じように「存在する」と呼ぶことをためらうだけだが、そのためらいを払拭するだけの根拠をマルクス・ガブリエルが示せているようには思えない。そもそも物理主義者であってもデヴィット・ルイスやアームストロングのような様相理論を用いれば(すべてではないにせよ)思考の対象もそれなりに扱える(対してマルクス・ガブリエルは一貫した理論を示しているとは言えない)。
たとえガブリエルがフレーゲの「Bedeutung」と「Sinn」の区別を意図していたとしても、関連した議論は分析哲学では散々議論されており、私もその一部を知っているに過ぎない。『例えば「アルプス」(同一の対象)が「山脈」であったり、たんに「原子の集合体」であるといった形で表現されることが可能である』(「新実在論マルクス・ガブリエル」p.183)と言われても、そもそも同じ対象を示している「ヘスペラス」と「フォスフォラス」の間の意味の違いをどう見い出せばいいのかを分析哲学ではずっと問題にしてたのだから、単なる名前の違いと同等に扱われてもどうかと感じる。英語圏マルクス・ガブリエルがそれほどには話題にされていないのもその議論の甘さを考えると仕方ないと思う。
まぁ他にも、マルクス・ガブリエルの「そうした規則がそもそも存在しうるかどうか」という設問はメタ理論の匂いが強くその不毛さも含めてやっぱり後期シェリング研究者なんだなぁ〜(感心)とか、分析哲学における観念論と反実在論の区別をきちんと考慮してくれとか、いろいろ思うところはまだあるが単なる感想にこれ以上手間をかける気は起きない。唯物論も観念論もどちらも批判すべきだという問題意識は理解できなくもないが、どんな存在でも認めるただの都合のいい欲張り存在論ではないかという疑惑は払拭されなかった。

*1:本来の哲学の話は最初の方にしかないとか、身体論は自然主義の例としてはふさわしくないとか