感覚データと非概念的内容は同じなのか問題(または想像力は知覚と思考を結ぶのか?)
マクダウェルの哲学説に関しては前々から疑問に思っていたことがあった。私自身は感覚データと非概念的内容って違うんじゃないかと思っていたのだが、翻訳された「心と世界」を読んでもその疑問はあまり直接には解消されなかった。理由は簡単で「心と世界」には概念的内容を特徴づけるはずの一般性制約への言及がなかったからだ。
マクダウェルが感覚データと非概念的内容を安易に同一視してしまうのは(源のエヴァンスのテキストにも原因の一部はあれど)「知覚に命題的構造はあるのか?」と「知覚は一般性制約を満たすのか?」という二つの質問を区別していないからのように思われた。前者の疑問に対してはマクダウェルは厳しく問い詰めているのだが、後者の疑問に関してはろくに触れられていない。しかし、一般性制約こそが非概念的内容を提唱したエヴァンスがそれを定義づけるものとして挙げたものなのだから言及していないこと自体がおかしい。感覚データへの批判はセラーズに則った議論なので問題を感じないのだが、非概念的内容への批判はどこか違和感を感じざるを得ない。「あんな色合い」まで概念として認めたら「あんな」も「こんな」もどんなでも概念的になってしまって何とでも言えてずるいのでは?という疑惑を脇においても、何よりおかしいのは知覚に一般性制約が成立するという話の方なのだが、残念ながらマクダウェルは主著の「心と世界」でこのことにまともに触れていない。一般性制約とは思考に典型に成立している特徴で、要素を入れ替える事で別の思想になること(例えば「トマトは赤い」が思想ならば「トマトは黒い」も「レモンは赤い」も思想として成立すること)である。しかし真面目に考えると、知覚に一般性制約が文字通りに成立すると考えるのは奇妙だ。知覚しているものの要素を自在に変えることはもちろんできないし、赤いトマトから赤いりんごに目を向けたとしてもそれは要素だけを変えたことにはならない。知覚されたものの要素を変えられるとしたら想像の中でするしかないが、当然ながら想像は知覚そのものではない。
実はこれと関連した問題にカントが直面していたことがあって、ハイデガーの「カントと形而上学の問題 (ハイデッガー全集)」の主題はまさにそれである。カント的な用語としては構想力と訳されるが、これは想像力と同じことである。カントの哲学では、知覚(感性)と思考(理性)を媒介する能力として理解(悟性)が想定されていて、マクダウェルが問題にしている直観と概念の結び付きは理解(悟性)に注目することでもある。しかし知覚(感性)と思考(理性)を媒介する能力には想像(構想力)もあるのだが、カント自身はこの問題を扱いかねて放棄してしまったところがある。これを私なりに言い換えると、要素を入れ替えられない知覚と要素を入れ替えられる思考とを媒介するものとして要素を入れ替えられる想像力を想定していた…と読むことも可能かもしれない。ハイデガー自身は構想力(想像力)を時間の話と結びつける事に懸命なのでこの方面に議論は進まないが、その指摘そのものは興味深い。さらに想像力(構想力)の問題はカントとドイツ観念論との違いにも関わっているし、さらに系譜を辿れば新プラトン主義の問題にまで結びつきうるとも思うが、ここではこれ以上論じない。