濱真一朗「バーリンの自由論」についての書評と意見

バーリンの自由論―多元論的リベラリズムの系譜

貧弱なバーリン論とバーリンの影響を受けた学者の単なる紹介を並べただけの本

自分の政治思想への興味の一環としてバーリンに興味を持ってこれを読んだのだが、完全な期待外れ。題名に反してバーリン自身についてはあまり論じられず、大部分を占めるバーリンの影響を受けた学者についても大した議論もないままに主張が紹介されているだけ。学者や学説を表面的に紹介するだけの学術書はよくあるが、これはその典型。目次を見て興味がある項目があるなら、単なる紹介だと期待せずに読めばがっかりしないで済む。
この著作全般で単なる学説紹介が中心で議論はあまりないのだが、比較的まとまった議論がなされている唯一の章が序章ではあるが、これがかなりの曲者。後期ロールズバーリンを強引に切り離そうとして無茶な話になっており、それがこの著作全体の議論をねじ曲げている。つまり、バーリンの消極的自由/積極的自由の対と後期ロールズの政治的リベラリズム/包括的リベラリズムの対は重ね合わせた方がすっきり理解できるのに、著者はバーリンと後期ロールズを無理矢理に別物にしようとして訳が分からなくなっている。それに加えて、古典的自由主義ロールズ以降のリベラルの間の区別をろくにせずに、安易にリベラリズムという言葉をあちこちで連発するので、そもそも何を議論しているのか自体が分からなくなる。だいたい価値多元論がメタ次元でバーリンリベラリズムがオブジェクト次元という理解だって、その理由となっている「多元論─それは適度な『消極的な』自由を伴う─」というバーリンの記述は、消極的な自由を前提にして多元的な価値を認める事ができるとも理解できるので、根拠としては不十分。こうした基本的な理解の不備がこの本の議論全体をねじ曲げている。
とはいえ、そうした基本的な議論の不備を脇に置いてしまえば、バーリンの影響を受けた様々な学者の紹介としてはそれなりに読める。ただし、題名から期待されるバーリンについては一章しか費やされておらず、二つの自由概念以外には、ロマン主義思想の影響を受けてるんだなぁ〜以上のことはほとんど分からない。それ以外の学者の紹介も、その学者の主張をそのまま紹介するだけでそれを吟味することは少ない。特にロールズ批判の紹介については、後期ロールズ批判はほとんど不当なものなのにそこは無視し(著者は渡辺幹雄のロールズ論を読んでるはずなのに何故?)、その上に同じロールズでも前期と後期の区別をつけずに話を進めてることもしょっちゅう。他にもいろいろな矛盾に平気で目をつぶっていて、例えば後期ロールズを批判するグレイと後期ロールズに好意的なイグナティエフを共に扱っときながらその対立は無視している。本当に単なる紹介しか期待できない出来になっている。
著者の提出する社会像(品位ある社会)に魅力を感じない訳ではないが、そもそもがこんな内容なので説得力がなく、やはりこの本に単なる学説紹介以上を期待してはいけないようだ。

以上がアマゾンのレビューからの転載。あと少しだけ内容紹介と勝手に考えたこと

第一部。前期ロールズを批判して代替案を提出するという前期ロールズ批判者に典型的な議論だが、共同体主義風に積極的自由としての卓越主義を擁護するというバーリン的には問題ありなラズ(まるで法哲学者は法に基礎が必要としているようだ)。後期ロールズへの不当な批判してまで闘技的民主主義を押し出す癖に、オークショットの市民的結社を擁護する点で実は後期ロールズに近い捻じくれたグレイ。バーリンの影響を受けてるとはいえ、なぜ彼らを取り上げないといけないのかよく分からない。
第二部。シュクラーによる恐怖回避を目指すリベラリズムであれ、マルガリートの屈辱根絶と名誉尊重を目指すリベラリズムであれ、ローティの苦痛除外を目指すリベラリズムの変奏にしか見えないし、イグナティエフに至っては人権を語る上で後期ロールズやそれを支持するローティに好意的に言及している。著者は彼らの社会観(品位ある社会)を支持するのだから、後期ロールズを切り離そうとする前半の議論は余計な欺瞞に思えてしまう。
バーリンの消極的自由/積極的自由とオークショットの市民的結社/企業的結社と後期ロールズの政治的リベラリズム/包括的リベラリズムの対は、大雑把に重ね合わした方がすっきり理解できる。前期ロールズへの批判は別の包括的リベラリズムの代替案の提出合戦に終始しがちだが、後期ロールズの重なり合う合意(および反照的均衡)からは、(前期ロールズを含む)学者が上から特定の包括的リベラリズムや卓越主義(公共哲学!)を押し付けるような行為には批判的にならざるを得ない。闘技的民主主義は衝突を認めてるだけなので何の問題解決にもならない。未だに自らの社会観を押し付けようとする哲人王への欲望が尽きない学者はいい加減にどうでもいい。
後期ロールズ以降の本当の問題は既に挙げた対(例えば政治的リベラリズム/包括的リベラリズム)の中間部分(政策決定)が離れすぎてることだ。重なり合う合意とは立憲主義的な最小限の承認部分で、これぐらいは認めてやらないとお互いにどうしようもねぇよな的な領域のことだ。この部分は社会契約的な領域なので昨日今日で何とかなるところではない。しかしもっと大部分は(財政不足などの原因も含めて)もっと意見が分かれる領域ばかりだ。熟議民主主義というのはその空白部分を埋める方法としてはとりあえず優れている。