思弁的実在論者ハーマンの哲学を私的に読み込む
いつものように何となくネットを漁っていたら、グレアム・ハーマン「オブジェクト指向哲学の76テーゼ」なる哲学的文書の翻訳を見つけた。グレアム・ハーマンは思弁的実在論で有名な哲学者の一人であり、私はそれほど期待もせず読み始めた。すると、その内容がスルスルと頭に中に入ってくる不思議な感覚に襲われた。思弁的実在論なんて現代思想系が内輪で騒いでるけど所詮は昔の東浩紀の言う否定神学システムでしょ!程度に思っていて、その見解は今でも変わらないが、それが自分にしっくりきたことに驚いた。その主な理由は、私も一時期ハイデガーを熱心に読んでいた時期があって、その時の理解と合致していたからだと思われる。思わぬ拾い物をしてしまったものだ!
ハーマンのハイデガー的存在論
(特に認知科学界隈では)ハイデガー「存在と時間」は最近亡くなった哲学者ヒューバート・ドレイファスによる身体論的なハイデガー解釈がよく知られている。これは解釈としては面白いと思うけど、「存在と時間」の前半だけを取り出して都合よく解釈しただけという印象が拭えなかった。ハーマンは「存在と時間」における道具存在の分析で知られるようになったのだが、それがまさにドレイファスのハイデガー解釈とは対照的なものなのだ。
ドレイファスは道具存在の手許存在性を賞賛しているが、私はそこにすごく違和感があった。私自身はハンナ・ヨナスのようなグノーシス的なハイデガー理解の方が(前記から後期までを一貫して理解できる点からも)テキスト的には正しい解釈だと思っていたが、ハーマンのハイデガー解釈はこのグノーシス的解釈に近い。素直にテキストに沿って読めば、ハイデガーは眼前存在性に劣らず手許存在性も好意的には思っていない。ハーマンの挙げる壊れたハンマーの例からもそれは分かる。アクセス可能な眼前存在性も手許存在性も超えた存在の本質に向かうのが目的であり、壊れた道具はその本質を匂わしてくれる。存在の本質(実在的オブジェクト)はいかなる関係(アクセス)からも「退隠」されているのだ。
ハーマンのホワイトヘッド的宇宙論
以上はハーマン哲学のハイデガー的存在論の側面だが、ハーマンの哲学にはもうひとつホワイトヘッド的宇宙論の側面もある。私はホワイトヘッドには詳しくないし、ハーマンの理論をそのものとしてはうまく理解できているとはとても言えない。しかし、当のハーマンには微妙な言及しかされていない汎心論と類比的に結びつけると、その基本的なアイデアは理解しやすくなる(ちなみにホワイトヘッドも汎心論者とされている)。
まず復習すると、物に対して知覚できたり使えたりできることとはアクセス可能なことであり、存在の本質(実在的オブジェクト)はそのような意味ではアクセス可能ではない。これを物にもアナロジー的に当てはまると、物にとっては(通常の)因果関係を持つことは他に対してアクセス可能なことを意味する。ハーマンは物が心を持つとした時、物の心は知覚によって他に対してアクセス可能なものとしてしか考えられていない(「オブジェクト指向哲学の76テーゼ」訳注7を参照)。
しかし、ネッド・ブロックに倣って意識にアクセス的意識と現象的意識があるように、知覚にもアクセス的側面と現象的側面があると考えられる。ここで現象的という言葉ではアクセス可能性が含まれているように勘違いされるので、アクセス不可能な側面をクオリア的側面を呼ぶことにしよう。すると、物の知覚にもアクセス的側面とクオリア的側面があると想定できる。ハーマン自身は汎心論によってアクセス的側面しか想定していないが、汎心論を採用する元々の動機を考える(物理主義によっては説明が届かない意識の領域を理解する)と、クオリア的側面もあると考える方が妥当だ。そこでアクセス的/クオリア的の対をハーマンによる感覚的/実在的の対に対応させると、アクセス不可能なクオリア的や実在的の側が存在の本質に当たる。汎心論はハーマン自身が思っている以上にハーマン哲学との相性は良い。
ハーマンのロマン主義的な根
ここまでハーマンの存在論と宇宙論についての基本的アイデアを追っていったが、それでハーマン哲学のすべてを理解できているわけではない。特に実在的オブジェクトと実在的性質とを分ける必然性はよく分からないままだ。後はハーマン哲学の重要概念である代替因果と魅惑に触れる。代替因果は神学とのアナロジーで理解できることはハーマン自身が触れているのでそちらにお任せする。魅惑については一見すると深遠なオリジナル概念に見えるが、これは哲学史的には(カントに由来する)ロマン主義的な崇高概念を思わせるところがある。いや、そもそもハーマンの哲学(しいては思弁的実在論そのもの)は全体的にロマン主義を思わせるところがある。思弁的実在論はカント以降の哲学における相関主義を批判しているが、思弁的実在論もハイデガーを介してロマン主義を継承している点で、相関主義/ロマン主義の対立の伝統を引き継いでいるように思われる。世の中に真に新しいものなどそうそうない!
- 追記(10/4)
「オブジェクト指向哲学の76テーゼ」を再読していたら、また思いついた。(第一六項から)実在的オブジェクトというのは分析的形而上学での束説と基体説の対立における基体にあたり、実在的性質というのはドゥンス・スコトゥスに由来するこのもの性にあたる。(第二四項から)感覚的性質とは現象学においてはトロープのことであり、感覚的オブジェクトとの緊張関係とはトロープを物へとまとめあげる困難を指す。
ただし、この解釈はハーマン理解には便利だが完璧ではなく、例えば物にこのもの性が複数あるように把握できてしまうがこれは無茶だ。あくまでアナロジーにすぎないがそれでも取っ掛かりには使える。