樫村晴香「ドゥルーズのどこが間違っているか?」の私的要約
分裂病(強度)と神経症(抑圧)が善と悪の戦いに重ねあわされるグノーシス的世界観(ニーチェをプラトンに対置し闘わせる)。ドゥルーズは新たな世界観(幻想)を提示してしまっている点でニーチェとは異なる。ニーチェの哲学者への態度は憐憫だが、ドゥルーズは批判に留まる。ニーチェが自己に魅惑されているのに対して、ドゥルーズはニーチェの観念に魅惑されている。永劫回帰を抑圧なき幻想とすることは、ニーチェのハイデガー化でしかない(想像が象徴化される)。ニーチェは体験する人だが、ドゥルーズは読む人である(哲学書を小説のように読む)。実在的層と潜在的層の間を循環する対象=xという構成は現実界と象徴界に関するラカン(およびベルクソンの純粋過去)に由来する。「世界の外から来る」ものとしての不吉な反復はあらかじめ意味づけられた「謎」として提示される(倒錯!)。これこそがドゥルーズの哲学的統一を可能にしている方法論である(異なる哲学説を無理やり結び付けている)。むしろ小説の言葉相互に生じるズレ(微分)への感覚こそがドゥルーズの真骨頂であり、よって患者の苦痛によりも捧げられた苦痛へと関心が向かう(苦痛は読み取られる)。ドゥルーズの理論は小説世界の再演であり、それが神経症的な現実と同格に論じられると誇大妄想に近くなる。身体‐運動野(他者への叫び)と言語野(意味)の離接関係はまだ十分に探られていない。
- 参照したサイト
樫村晴香「ドゥルーズのどこが間違っているか?」(http://www.k-hosaka.com/kashimura/jiru.html)