愛してるって何度も言って

ある種の男は、社会とか政治とか国家とか、大きなものについて語るのが大好きである。それは昔ほどではないにしても、今でもそういう大いなるものを好んで論ずる男は多い。私からすると、普遍名詞の一般性を平気で前提にする語り方、例えば「国家とは…」「男とは…」「若者とは…」のような、を信じることができるのがよく分からない。どうして彼らはあんなに一生懸命に社会評論とか国家論争とかをまくし立てるのだろうか。
よくいるのが批判男である。今の政治や社会はダメとか、若者はなっちゃいないとか、家族はこうあるべきとか、なんだかそんなのばっかりである。政治とか評論の世界でも、あいつはダメだとかいう話ばっかりしている気がする*1。もちろんそのほとんどは男である。なぜそんなことをするのだろう。彼らは、権威のありそうな人を非難して、実は権威などないのだと宣言する。まるでどこかにもっと権威のある人物がいるかのような言い振りである。当然そのような人物が名指されるわけではないが。ここにあるのは何か。精神分析の用語に翻訳してみよう。自分は去勢されていて劣等感があるので、そうでないという権威のある人物を攻撃する「お前らも去勢されている」と。こうしてファルス(本物の権威)を持った唯一のものに自らの身をささげる。去勢とは自らの万能感を失うこと、とぐらいに考えればいい。自分には何もかもを支配する能力がないということで、彼らは他者を非難し続けることによって享楽を得る。こうして彼らは実現しない理想や理念を保持し続ける。大いなるものの普遍性を信じ続ける。自らの欠如をありえない理念にささげ続けるというのは、いかにも男性的なあり方である。
それに対して、ある種の女性は、恋愛とか結婚とか買い物とか、そういう身近なものが大好きである。しかし彼女らはあまり「恋愛とは」「結婚とは」なんて語らない。あくまで自分にとっての恋愛や結婚を重視する。ここがある種の男との大きな違いである。彼女らは大きな理念になどに身を任せない。だからといって、彼女らが劣等感や欠如感と無縁というわけではない。それに対する対処の仕方が異なる。例えば、収集が趣味の男とブランド品を買いあさる女とを比べてみよう。表面的には物を集めて蓄積するという点で似ている。しかし、物を集めることそのものが目的のそうした男とは異なり、そうした女にとっては買うとか着るとかという行為こそが目的になる。その男にとって集めることは支配することであるが、その女にとってはそうではない。彼女らにとっては、そこから得る享楽は何度も何度も繰り返されるべきものである。彼女たちは愛のアンコールを必要とする。「愛してるって何度も言って」。彼女たちは怪しい理念よりも確実で安定したことを求める。「永遠に愛してるって誓って」。こうして彼女たちは、その場その場でより確かな言葉を幾度も求め続ける。「もう一度、愛してるって言って」。
社会とか政治とか国家とかといった全体性を一気に求めるのが男性的なことなら、確実な部分を常に求め続けるのが女性的なことである。部分をいくら集めても全体性にはたどりつけない。こうして彼女たちは享楽を得つづける。安易に大きなものを信じ続けて、後で裏切られるのとは異なる。もちろんそこに問題がないわけではない。例えば、ブランド品を買いあさるには大量のお金が必要である。ここで罠にはまる。高度資本主義の罠。恋愛や結婚には男が必要だ。しかし、彼女の期待に見合う男はそうはいない。恋愛至上主義や家族主義の罠。そこにいかなる依存もないわけではない。確実な部分をいくら集めても、確実な集合が出来上がるとは限らない。そこには隠された前提がある。(ちなみに、男と女のこの非対称性こそが愛の源泉である。)
ちなみに、ここでいう男性的/女性的の対立と、現実の男/女の対立は一致するわけではない。ごく普通に、男性的な女や女性的な男は存在する。だからといってこの対立が無効になるわけではない。対立を固定化するような本質主義には注意すべきであるが、それはすべての対立を破棄すべき理由にはならない。対立なしに物事を考えるのはあまりに難しい。重要なのは、対立(差異)をどう位置づけることができるかを見極めることである。