現代の普遍論争の概念的枠組みを考える

基本的にネット上で手に入る学術的な資料ばかりから判断してるので注意

現代の普遍論争について調べてみて困ったことは、学者によって概論的な見解があまりに異なることだ。心の哲学における心身問題の扱いが教科書的に比較的整理されているのに比べると、形而上学における普遍問題の扱いはうまく整理されていない。もちろん基本となる概念や文献はあるのだけれど、それをまとめる段になると意見が一致しない。例えば、D.M.アームストロングは普遍説とトロープ説を排他的に対立させて考えている。しかしア−ムストロング自身が認めているように、普遍とトロープを両立させている哲学者は存在する。それに対して、アームストロングはオッカムの剃刀を振り回して、余計な概念の共存を一切認めない。しかし、どうもこれは偏った見解に思えてならない。
現在の普遍論争でよく知られている問題として束説と基体説の対立がある。中立的な言葉である性質を用いて説明すると、束説とは存在物を性質の単なる集まりとして見る考え方であり、基体説(または属性説)とは各種性質が宿る特別な存在としての基体があるとする説である。もちろん、束説は基体のような特殊な存在は認めないのであり、これが大きな争点とされる。こうやって表面的に整理すると(議論の意義を脇に置くとしても)理解はできなくもなさそうだ。しかし、これらの説を提唱文献にまで遡るとおかしなことに気づく。どうも束説と基体説は対称的な対立ではないのではないかと疑われる。束説は、古典的にはヒューム、新しいところではドナルド・ウィリアムズやキース・キャンベルが採る説とされる*1。対する基体説は、古典的にはトマス・アクィナス、最近ではD.M.アームストロングが採る説であり、ベルクマンによる裸の特殊も同じ考え方だとされる。こうして見るとあることに気づく。束説の支持者がトロープ論者ばかりなのに対して、基体説の方は普遍論者が目立つ。
私がいくつか見た概論的説明では、「普遍説とトロープ説の対立」と「束説と基体説の対立」とは独立しているかのように扱われていたが、それが実は問題があるのではないかと思ってしまう。実はこう考えると辻褄が合う。トロープは初めから具体的なので端的に集まるだけで具体的な物になりうるが、普遍はそのままでは抽象的なので裸の特殊とも呼ばれる基体によって具体化されないと具体的な物になれない。言い換えると、トロープは初めから具体的なので基体による受肉を必要としていないということだ。もちろんまだきちんとした文献探索を必要とする仮説にすぎないが、これを思いついたときにはあまりに辻褄が合いすぎるので自分で驚いた。
ここでトロープ説の考察に還ってみよう。D.M.アームストロングはトロープ説を普遍説とは排他的に対立させているので、トロープ説は唯名論だとしている。実際にはトロープを認める実在論者は存在するので、この見解は一般的な見解とは言えない。ではトロープ論者でかつ実在論者である哲学者とは誰なのか。その代表はフッサールだ。フッサールのmoment(ドイツ語)概念はトロープと同じとされ、基づけ関係の考えも束説に近いとされる。また、もしフッサールが何かしらの形で実在論を支持していなかったとしたら、現象学(本質直観!)という試み自体が意味のないものになってしまう(唯名論現象学など想像も付かない。そんなのは解釈学だ)。ここでは詳しく取り上げないが、ドゥンス・スコトゥスも(ロックも?)トロープ論者でかつ実在論者である可能性が高い。やはり、オッカムの剃刀を振り回して普遍説とトロープ説を切り分けるのは乱暴であり、それは想像力のなさか哲学史の無視でしかない(D.M.アームストロングは意図的に後者)。
むしろ、トロープ説は唯名論実在論の対立に対して中立的だと考える方が辻褄は合う。分岐はトロープの扱いにあるのであって、トロープの存在にあるのではないのではないか。しかし、この考え方は「普遍説と基体説」および「トロープ説と束説」がそれぞれ一致するとする考え方と調和しない。ここではその矛盾を解くことはしない。現代の普遍問題における概念構成にはまだまだ考慮すべき点が多くある。

  • 文献紹介

私は未読だが、目次を見る限りでは現代の普遍問題に関する一通りの重要論文が載っていて便利。
The Nature of Properties ISBN:0815330669

  • 追加でリンク

期待されると困るので言及すると、私が語るのはあくまで哲学的な存在論であり、流行りの工学的なオントロジーとは異なる。無関係ではないがあまり変に期待はしない方が吉(私も面倒なのでいちいち関連付けません)。以下のリンク先も参照。
オントロジー工学序説
http://www.ei.sanken.osaka-u.ac.jp/pub/miz/miz-onteng.html
オントロジーと哲学との関係については以下の論文の第三節を参照。ちなみに私がメレオロジーについて直接触れることはこの先もたぶんない(専門家の意見を聞く方が妥当だと思います)。せめてオントロジーアリストテレスのカテゴリー論が源だって事ぐらいは知っておいてもいいとは思うが。
「メレオロジー代数的構造の研究」(PDF)
http://211.1.196.154/jalop/japanese/ronbun/2003/saito.pdf

*1:ちなみに、ラッセルを束説であるとする考えもあるが、これはおそらく記述説を指して言ってるのかもしれないが、私はどうも無理を感じる。じゃあクリプキを基体説だとでも言えるのか、まさか!