ディスクレシア(読み書き障害)から考える人類進化の謎

しばらくここに記事をあげてないが、ブログに書きたいことはなくもなかった。

例えばハイエクニューラルネットワークの記事を書くつもりで、めぼしい論文からの引用まではした。感覚秩序の話だけ書いても物足りないのでその先も書こうと計画だけはしたが、そこから進まない。ハイエクの前期と後期を結びつける論文に書けるような話を、軽い気持ちでブログに書こうとしたのに無理があった。他にも、主観と客観(または実証主義構築主義)の話とかギブソン派の話(アフォーダンスは科学ではなく思想の言葉)とか、書きたい話題はあるが書く気が起きてない。

探索と活用のバランスを探る

で、今回書こうとする気が起きたのは、この記事を読んだからだ。

ディスクレシアとは、文字の読み書きに関する障害である。これは珍しい障害ではなくて、実は身近な人や有名人がこの障害である可能性は高い。この障害の人は、学校では苦労することも多いが、社会に出ると案外なんとかやっていけることが多い。(中にはいわゆる成功者もいる)。

地球上に生息するあらゆる動物は、生存のために価値ある情報や資源を探す必要がある。とはいえ、発見したものを活用せずに延々と探索を続けていては非効率だ。
反対に、あらゆるものを利用しても問題解決として最適ではなかったり、変化する環境への適応に失敗する可能性もあったりする。このように、「探索」か「活用」のどちらかに偏りすぎると、動物は生存に必要な資源や知識を得られない。

読み書きが困難な「ディスレクシア」の特性が、人類の文化的漸進に貢献していた:研究結果 | WIRED.jpより

これを読んで、この前ここに上げた記事を思い出した。

関連した説明を、別の論文から引用してみます。

上記のように,期待自由エネルギーは,
認識的価値 (epistemic value)と外在的価値 (extrinsic value) の和
として表現できる.上の関係から,外在的価値が期待効用に対応し,将来期待される世界のエージェントモデルに対する対数証拠と関係しうることを意味する.認識的価値は,将来の成果によって隠れ状態に提供される期待情報ゲイン(相互情報量)である

乾敏郎「自由エネルギー原理―環境との相即不離の主観理論―」p.381より

自由エネルギー原理における認識的価値と外在的価値は、引用したWIREDの記事における「探索」と「活用」に対応しているように見える。しかし、(自分の記事でははっきりとは指摘してはいないが悲観的予測の問題と関連した形で)認識的価値と外在的価値をどう足し合わせて期待自由エネルギーを導き出すのか?は分かりにくい…と思っていた。その私の懸念はどうも間違っていないようだ。

進化の歴史は、ヒトの社会が足りない部分を補完する戦略に特化してきたことを示唆している。このため、問題解決のための「探索」と、社会をうまく回すための資源や情報の「活用」はトレードオフの関係にあると考えられてきた。

読み書きが困難な「ディスレクシア」の特性が、人類の文化的漸進に貢献していた:研究結果 | WIRED.jpより

自由エネルギー原理では、そのトレードオフは個人の中でバランスをとることが目指されている。しかし、WIREDの記事では違う可能性が指摘されている。

自動化の遅れを伴うこのような情報処理方法は、非効率で手間がかかるかもしれない。しかし、そのトレードオフとして新しくより適切な戦略の可能性を模索し、そこで得た知識を既存の情報と統合する時間を提供する、ひいてはイノベーションを促進する可能性が示唆されているのだ。
程度の違いこそあるが、ディスレクシアは人口の約5〜20%を占めると推測されている。「ディスレクシアの代償的な利点がなければ、これほど一般的であるはずがない」と論文が強調する理由は、ディスレクシアの人々には変わりゆく環境のなかでものごとの全貌を把握し、解決法を見出す能力に秀でている可能性があるからだ。

読み書きが困難な「ディスレクシア」の特性が、人類の文化的漸進に貢献していた:研究結果 | WIRED.jpより

つまり、活用と探索のバランスが個人内ではなく集団内でとられることで、人類の環境への総合的な適応性を高めている。ここでいう集団とはpopulationのことであり、集団遺伝学における集団と同じだ。このような個人差を考慮した集団的な思考法は、(正統派)進化心理学における人の普遍性を探る思考法とは異なる(そもそも人類が文字の読み書きができるようになった時期は遅いし、文字のない社会そのものが珍しい訳ではない)。

ということは、認識的価値と外在的価値を足し合わせる普遍的な式があるのではなく、そこには個人差をもたらす変異がある可能性が高いと感じる。もちろん、自由エネルギー原理にはまだそんなことは書かれてないが、私には考慮すべきことに思える。

脳の構造にも表れる認知スタイル

ここまでがWIRED記事の前半の話で、後半はもう少し違う話が続く。それは脳の構造の違いにある。

ディスレクシアの場合、このマイクロカラム回路に関連する生理学的制約が、ローカル結合を“犠牲”にすることでより強いグローバルな結合を可能にしている。なお、自閉症の人たちは、これとは真逆の構造をもつことがわかっている。
このようなカラム構造の違いが、全体的な志向バイアスをもつ人(ディスレクシアの人)から細部志向のバイアスをもつ人(自閉症の人)までの認知スタイルのスペクトラムを生じさせる可能性がある。

読み書きが困難な「ディスレクシア」の特性が、人類の文化的漸進に貢献していた:研究結果 | WIRED.jpより

詳しくは元の記事を読んでもらうとして、ここで注目するのは前半との違いだ。前半は「活用と探索」の対に対して、探索に特化したディスクレシアの特徴が語られていた。それに対して、後半では脳の構造から、全体を見るディスクレシアと細部を見る自閉症の対が語られている。ここで前半と後半とで話題になっている対には対応関係はないように思える。自閉症は活用が得意だ…と考えるのは不自然だからだ。「活用と探索」の対と「全体と細部」の対は次元が違うと考える方がしっくりくる。


ラカン精神分析における自閉症

ここからは、(事実レベルの嘘はないはずだが)私の勝手な見解が多く含まれます。

最近、ラカン精神分析における自閉症論をいくつか読む機会があった。私の感想としてはお話としては面白いと思うけど、ラカン自身が自閉症を診た気配があまりないのと、ラカンが亡くなった後の自閉症研究の進展を考えると、あまり本気で受け取らない方がいいと感じる。読んだ論文も(もはや時代遅れの)アームチェア精神病理学の印象を強く感じるものばかりだった。

ラカン精神分析神経症と精神病(統合失調症)との対を基盤に据えた理論だが、そこに自閉症を位置づけるのに無理を感じる。ラカンの理論は言語(シニフィアン)1の理論だが、そこに位置づけようとすると自閉症を言語の障害として捉える必要がある。次の論文がその典型だろう。

詳しくは各自で読んで判断してほしいが、私は無理を感じる。次の論文は、同じような現代思想的な説明も多く含まれるが、むしろそれをも批判する構想力の観点に注目してる点ではより興味深い。

google:隠喩としての自閉症 構想力の盗用をめぐる試論

自閉症のより科学的な説明では、バロン=コーエンによる心の理論の障害説がある。これは社会性に注目した視点だが、他にも見えてる向こう側が想像できない事例も指摘される2。ここに共通するのは、逆問題を直観的に(無意識的に)解くことの困難だ。逆問題についてはこのブログでも前に触れた。

逆問題を解くとは、大雑把に言えばデータに知識を付け加えることだ。この場合の知識は認識できる世界を広くもしてくれるが、世界に偏見を加える点ではバイアスでもありうる。ここには、(ディスクレシアと同様に)自閉症の持つ人類の適応性への貢献の秘密がある気がする。3


  1. ただし、現代思想的なこの言語観は私には狭くも感じる。これだと言語は身体的でない…とみなされやすいが、実際には言語の中には身体的な要素は様々な形で含まれている(例えば認知言語学を参照)。私自身は言語は思考や身体や社会性など複数の心的な要素の交差点だと思っている

  2. 単に想像そのものができないアファンタジアという障害もあるが、これは別物。この障害は(イメージ-命題論争における)イメージ派を支持する私には衝撃なのだが、その話はここではしない

  3. ごめん。この辺りで記事を書くのが面倒になった。でもここからは、主観客観問題にもギブソン派(特に直接知覚説)問題にも繋げられるのだが、すでに切りがない。精神分析では人類の多数派とされる神経症こそが「活用」の側では?とも思ってたが、根拠のない妄想なので本文に書くのはやめた。