私たちはいかにして世界を知るのか--哲学的認識論について--

私的な序論

ある意味で、私は昔からたった一つの疑問についてしか興味を持っていなかった。他の人は世界をいかに見ているのか。果たして私と同じに見ているのか、そうではないのか。人は物事をどのようにして知るのか。なぜ同じ物を見て意見が分かれるのか。もちろん常にこの質問が頭にあったわけではないが、しかしふと気づくとそれが不思議で不思議でしょうがなかった*1。大学の専攻(心理学)は全く別の理由で選んだのだが、認知科学の存在を知ってからはすっかり夢中になったのもそのせいかもしれない。それとは別に哲学の本も読んでいたのだが、哲学における認識論とは真理を相手にした認識論でしかないことが分かり興味がなくなった。今ではたいていの哲学の議論は自分に都合のいいように使えるが、当時はまだそれができなかった。それに科学理論には何かがあるという希望を持っており、思弁的な話には目が行かなかった。しかし、後にC.H.パースの著作を読んでから以降は、科学理論の限界も哲学理論の役割も理解できるようになったのだが。

認識論の歴史(近代篇)

人が直接に認識できるのは知覚と言語だけである(行為は知覚を通して知る、内部感覚はとりあえず無視)。これがすべての出発点だ(下図を参照)。

存在-->知覚-->言語
  |      |     |
  +----行為----+
 図  人の認識

これを出発点にすると、世界は存在しないという説は簡単に導ける。私たちは相手の知覚を直接知ることはできない。その人の言語や行為から間接的に知るに過ぎない。だから、私の知覚が外部の存在から来ているという直接の保障はない。私の見ている世界は勝手に作られたものかもしれない。これが独我論である。この場合、私の世界とあなたの世界は一致する必要はない。しかし、私の見ている世界がいかにできているかを考えると、独我論ではあまりに不十分な説明だ。私が知りたいのは世界や他人の存在ではなく、人の認識である。見ている世界が全く別々にしては、言語や行為による一致が多すぎる。存在しているかどうかは分からなくとも、少なくとも世界や他人を設定するのは正当な気がする。それが何であるかはまだ分からないにしても。
そこで次に導かれるのは観念論である。世界は存在しない、それは観念に過ぎない。私の知覚していないものは存在しない。存在するとは知覚することである。こうした観念論はよく誤解されて批判の対象となるが、実際のそれを導く論理は合理的である。そもそも存在とは知覚を元に推論されたものに過ぎない。存在を直接に知覚することはできない。私たちは合理性を持った観念を知覚しているに過ぎない。合理的だから行為による働きかけもできる。物は落ちる。遠くの物は小さくみえる。それもこれも観念の合理性による。何もそれをもったいぶって存在などと大層に呼ぶ必要はない。それは過剰な推論に過ぎない。だから、推論の元である言葉はさして信頼できるものではない。私たちは直接に知覚できることだけを信用すればよい。この考え方の最大の欠点は推論をあまりに認めなすぎることである。確かに確実なのは知覚だけかも知れないが、それでは話がそこで終わってしまう。私の知覚する観念とあなたの知覚する観念が一致する可能性はあるが、それを確証することは原理的に不可能となる。これではあまりに厳しすぎる。知覚できる観念の合理性ぐらい確定してみたい。というわけで、次の段階に進むことになる。
次はなぜ私たちの認識はたいてい一致するかの理由を求めることになる。そこで先験論の誕生である。先験論では、私たちの認識、知覚や言語、がなぜ一致するのかに答える。答えは簡単だ、それが私たちに共通の原理として生まれつき備わっているからだ。空間が三次元として知覚されるのは、生得的にそう知覚できるように設定されているからである。言葉の論理も生まれつきに備わっている。この考え方の最大の長所は、外側の世界に余計な原理を背負わせないことである。存在の原理など人には直接に認識できない。それは上で見てきたとおりである。それを踏まえた上での考察である。あまりに見事だ。一方で私たちの認識の一致する理由を示し、他方で私たちの認識の限界を示す。逆にこの考え方の欠点は、人の認識が時代や文化によって違うという差を理解できないことである。それはどこからやってくるのか。
そこで考え出されたのが弁証論である。私たちはある時代や文化の中で育つことによって共通の認識を身に着けるようになるという考え方だ。例えば、パソコンなど昔の人は知らなかったはずだが、私たちはいろいろと知っている、なぜなら、本や人からそれを教わったからだ。知るといっても言葉だけで知るのではない。マニュアルだけを理解してもパソコンを知ったことにはならない。実際に教わったり使ったりして様々な用語の意味を知る。実際の関係を通して認識は形成されるのだ。他の人や物との相互関係が人の認識を作り出す。弁証とは対話の意であるが、対話とは典型的な相互関係である。ちなみに、この考え方だと知覚から言語への結びつきも考察できる。先験論では明らかにできなかったことだ。先験論では比較的に単純な対応関係しか想定していない、弁証論では認識を身に着ける過程を想定することで、知覚の世界から言語の世界への移行も捉えることができる。これは大きな進歩である。
ここから先はより具体的な進化論や社会論の話へと進むことになる。その途上で、無意識という、認識を支配するもう一つの要素の発見もなされる。要するにここから先は個別科学が大きな役割を果たし、それを無視しすると思弁的な議論にしかならないので注意が必要だ。これ(科学関連)に関する知識もあるにはあるが、とりあえずここまででやめておくことにする。

*1:だから、世界は存在するのか?とか(どっちでもいい)、道徳はなぜあるのか?とか(どうでもいい)にはあまり興味がもてなかった。いかに生きるか?という問題もあるが、それは誰もが抱く問題でしかない