エヴニン「デイヴィドソン」に対する書評というより批判的検討からの論考
デイヴィドソン―行為と言語の哲学
デイヴィドソン哲学の総論としては貴重だが、解説は分かりにくく批判も説得力に欠ける
デイヴィドソン哲学を全体として扱った著作は今でも珍しいが、解説書としては分かりにくい上に説明が独特な所も多く問題ありで、素直にはお勧めしがたい。もっとテーマを限定したデイヴィドソン論なら優れた物が他にあるのでそっちを読む方がマシ。デイヴィドソン哲学についてそれなりに知識を持った人がその全体像を整理するために批判的に読む場合ぐらいにしか勧められない。
デイヴィドソン解説として分かり易くないことには目をつぶるとしても、例えば寛大の原理の説明が所々変(例えばp19序論で早速変)、同一の身体状態に対する異なる心理状態の対応によって心身のトークン同一説を認めていないかのような記述をしてる(明らかに誤解を招く)*1、とか細かい点であちこちで疑念が湧いてきて、これ以上は指摘するのが大変なのでそれはもうやめておく。だから、ここではこの著作の中でも比較的検討に値すると思われる一点だけを考察するだけに止める。
この著作を読んで辛うじて得られる物があったといえたのは、終わり頃に論じられているデイヴィドソンにおける解釈学的構想と存在論的構想との抗争関係への指摘である。デイヴィドソン哲学に以前からどことなくモヤモヤを感じていた身には、そうした指摘をはっきりしてもらうとすっきりするが、かといって全面的に説得力があった訳ではない。
…とここまでで注意しておきたいのだが、この文章をこの先ある程度書き進めた後で、エヴニンの言う観念論が何かがよく分からなくなって該当個所を確認してみたのだが、どうもエヴニンは心的語彙(に対応する心的状態)に関してのみ観念論を主張しているようだが、私からするとそれってトークン同一性や付随性(スーパーヴィーニエンス)によって解消できることじゃん!と気づいて、自分が(只でさえ評価が低かったのに)著者をまだ買いかぶっていたことが分かって呆れてしまった。かといって、文章を一から書き直すのは面倒なので、元のまま一般的な観念論として議論してから、最後にここで注意したことにちょこっと触れる程度に止めた。
まず確かめておきたいのは、デイヴィドソンにおける解釈学的構想と存在論的構想が衝突してるとしても、デイヴィドソンにおいては言語哲学(根源的解釈や寛大の原理)と形而上学(出来事や心身問題)は理論として別々に考えて無理に一貫させる必要はないじゃないかということだ。しかし、存在論系の論文でも言語分析への言及は普通に為されているので、(エヴニンも気づいているように)言語哲学と形而上学を完全に分離するのは無理がある。ならばエヴニンの指摘は正しいのだろうか。
エヴニンの指摘では、解釈学的構想における観念論と存在論的構想における実在論が対立しているという。しかし実の所、解釈学的構想が観念論的であるというのはあまり聞いたことがない。もしデイヴィドソンの根源的解釈がバークリ的な意味で観念論であると言えるのならば、観察文を特権化するクワインはそれ以上に観念論であることになる。バークリ的な観念論は水槽の中の脳的な懐疑論と結びついていて、これを完全に解けた者はデイヴィドソンを含めても誰もいない事を脇に置いても、デイヴィドソンの解釈学的構想が(真理条件がセンスデータから成り立っているのように考える)観念論であり存在論的構想と両立しないと考える必要はないと思われる。もう一つの可能性としては、ローティのようにヘーゲル的な観念論だと考える事だが、これも(真理条件を軽視して)合意だけがすべてととるデイヴィドソンに対する特殊な解釈で、デイヴィドソンがそんな特殊な考えにコミットしている考える必要はない。そもそもエヴニンのように、解釈学的構想に観念論という形而上学的な負荷をかけた上で、存在論的構想をそれと同等の立場に立たせて両立しないと見ること自体がおかしい。デイヴィドソンにおける真理条件はもっと様々な構想に対して中立的に考えてよい。解釈学的構想と存在論的構想は同等の立場なのではなく上下の階層関係にあると考える方が納得がいく。
私がデイヴィドソン哲学に対して最も感じていたモヤモヤは、比喩論や言い間違い論で主張されていることが言語が合成的であることと両立しないように思えたことだ。これは一見、言語哲学だけの問題であることから、エヴニンのデイヴィドソン批判とは関係ないように見えるが、少し考えてみれば関連性が高い事が分かる。つまり、言語の合成性とは(「雪は白い」から「これは雪だ」と「これは白い」へのような)出来事に対応する命題への分解可能性によって成り立っていると考えれば良い。発話文を全体として真とみなす事と(合成性が成り立つように)文を文節化できる事は別々のことであり、その文が文節化できるかどうかは真理条件とは分ける事ができるのだ。要するに、中立的な解釈学的構想の上に任意の存在論的構想(例えば出来事の存在論や可能世界の存在論)を載せる事ができると考えれば良い(おそらく形式意味論には何かしらの存在論的構想は欠かせないのかもしれない)。
エヴニンの勘違いへの訂正をまとめると、(1)解釈学的構想に観念論を読み込む必要はない、(2)解釈学的構想は存在論的構想に対して中立的な基盤になるのであって、同等に比較するのがおかしい*2。ここにさらに、(3)解釈学的構想と存在論的構想の二層構造は言語哲学の内側で既に生じている、を付け加えても良いだろう。しかし(既に注意したように)なによりも間違っているのは、(4)同じ現象に対して物的語彙によってでも心的語彙によってでも(あるいは比喩によってでも)任意の解釈を当てはめる事ができること、を理解してないことだ。
それにしても、デイヴィドソンにおける存在論的構想に対する解釈学的構想の関係は、前期ロールズによる社会に関する構想に対する後期ロールズのメタ構想の関係と類比的だ。中立的な解釈学的構想=メタ構想の上に様々な具体的構想が成立するのであって、デイヴィドソンやロールズ自身による構想でさえそうした様々な構想のうちの一つにすぎないのだ。
- 作者: サイモンエヴニン,Simon Evnine,宮島昭二
- 出版社/メーカー: 勁草書房
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*1:ちなみに、非法則的一元論に関しては、キムの批判は究極の心理学理論においては法則性が成り立ちうると言っているのであり、デイヴィドソンが心身の非法則性が必然的な成立と考えるとしたら確かに問題があるが、単なる可能性でしかないとしたらパトナムの批判のように現実にありえない究極の心理学理論のために常識的な素朴心理学を軽視するのはおかしいと言うキムへの批判が効いてくる。それとは別に、同一の物的状態に対して同一の心的状態が対応する(つまりトークン同一説)とはデイヴィドソンが考えていない可能性がスワンプマン論文(心にはとっては来歴が大事)から言えうるので、話はもっとややこしいかもしれない。
*2:ちなみに、ここで言う基盤は基礎づけ主義における基礎とは異なる。基礎づけ主義の基礎は上の建物を決定してしまうが、解釈学的な基盤は上の建物をほとんど拘束しない。セラーズの批判を受け入れた上で、基礎にあたる感覚データは常に概念化されているとするとマクダウェルの説になるが、それに対してもデイヴィドソンの解釈学的基盤は中立的ではないかと思う。解釈学的な基盤はマクダウェル説であれローティ説であれどちらでも置ける程度には中立的だ