ジジェクの認知科学批判など、認知科学の歴史ではとっくに通りすぎたことだ

認知科学が、意識やクオリアの問題についての思弁的な話をするようになったのは比較的最近、1990年代以降のことだ。それまでは、基本的に実証的な「科学」としての地位を保っていた。1990年代あたりに物理学者ペンローズなどが加わったあたりから、話が思弁的・還元的になり始めた。脳科学を還元主義に仕立てたのはペンローズなどの外部からの無理解な人間による。当の認知科学じゃ、脳と身体の関係とか、まともで現実的な話をしていた。しかし、世間一般の人は、煽情的な還元主義や思弁主義に注目してしまったようだ。

そして「私はなにものであるか」という問いに、認知科学は、「あなたは単なる脳だ、遺伝子でしかない」というトラウマ的な解答を与える。

こういう意見は、認知科学を還元主義と見る俗流の偏見に過ぎない。
そもそも、認知科学は1980年代から1990年代にかけて、ポストモダン化をすでに経験済みだ(認知科学年表 http://d.hatena.ne.jp/deepbluedragon/20050729/p1を参照)。認知科学から進化心理学文化心理学とへの分化も生じたが、それも現代思想における、ポストモダン思想がカルチュラル・スタディーズに移行したのと同じだ。だから、次のような意見は見当外れでしかない。

「私はなにものであるか?」と問うことそのものが、還元されないということである。動物と変わらない分子情報であり、脳という器官にそのような過剰はどこにも見いだせない。この過剰こそが人間そのものであり、それが知としての現実界ではない、現実界の近接としてトラウマ的裂け目である、というである。

  • 「まなざしの快楽」同上

この程度の意見は、認知科学ではとっくに過ぎ去った意見に過ぎない。記号的な情報処理論から、それを批判し、現実的で身体的な理論へと向かう。この程度のことはすでに行なわれたことに過ぎない。それを知るためのよくまとまった文献としては、ヴァレラらの「身体化された心」ISBN:4875023545 がある。「身体化された心」で積極的に参照されているのがメルロ・ポンティ「知覚の現象学」である。つまり、ジジェクラカン)が現実界というのと、認知科学(メルロ・ポンティ)で身体性というのでは、その距離は恐ろしく近い。
ちなみに、もしここで言う「私」が、この私、単独者としての私、唯一の私、のことを言っているのだとしたら、そんなの科学にとって関係ない。そういう実証不可能な問題は、哲学者とか評論家とかが勝手にしゃべっていればよい。科学に扱えるのはせいぜい個人差が限界だ。科学に理解のある哲学者デネットも、意識を説明するという方向よりも、カルテジアン劇場(デカルトの劇場)という心身論の偏見を取り除くという妥当な線を行っている。科学理論は、哲学や思想そのものではないので注意。あくまで、科学では実証できることから推論できることへと進む。この点を見逃して批判のための批判になってもしょうがない。
だからといって、科学理論に問題がないというわけじゃない。重要なことは、実際の実験や調査からどの程度のことが分かり、その理論がその実証性からどこまで逸脱しないでいるのか、を見極めることである。科学者が科学理論を拡大解釈することがあるのも確かだからである。まぁ、一般の人が認知科学をそこまで理解している必要はないのかもしれないが。