宮台真司の右翼宣言と反りが合ってない超人と俗人の対立

この文章(http://www.miyadai.com/index.php?itemid=310)は、超人(マイヨール、ソクラテス)vs俗人(マイヨルカ、プラトン)という対立で成り立っている。しかし、その対立は実のところ均一ではない。マイヨールvsマイヨルカの対立とソクラテスvsプラトンの対立の持つ意味はかなり違う。その違いは宮台真司の右翼宣言を考えるとかなり問題だ。

マイヨールはいつもファンや女たちに囲まれていたが、マイヨルカはいつも血族に囲まれていた。マイヨールは晩年孤独を深めたが、マイヨルカは子や孫が増えて益々賑やかになった。マイヨールは〈社会〉と調和できなかったが、マイヨルカは〈社会〉と親和した。

つまり、マイヨルカは生まれつき家族に恵まれた人物であったのだ。家族という帰るべき共同体があるからこそ〈世界〉から〈社会〉へと帰還できる*1。この場合の家族とは古代ギリシアで言うと悲劇時代のポリスのようなものだ。国際化が進んだソクラテス派の時代とは違う。帰るべき場所がはっきりしているからこそ、大冒険をして帰ってくることができる。マイヨールの事情はこの文章からははっきりとは分からないけれど、もしかしたら家族とうまくいかなかったという可能性もある気がする。少なくとも社会とはうまくいっていないらしい。どんな理由であれ、〈世界〉から〈社会〉へと帰還する理由が見出せない条件を満たしてしまっているようだ。こうして見た場合、マイヨルカのあり方が右翼的でなくてなんであろうか。他者への信頼による自らの基盤を持っているのはマイヨルカだ。
ソクラテスプラトンの対立はまた違う。そもそもソクラテスプラトンも所詮は主知主義の側であるせいもあるが、それだけではない。同じ俗人として規定されているマイヨルカとプラトンとを比較すれば分かる。プラトンには帰るべきポリス(共同体)を見出すことができないから、哲人王説などにはまってしまったのだ。明らかに右翼的ではない。むしろ、死刑判決を素直に受け入れたソクラテスのほうがよっぽどポリスに属している。宮台真司の定義だと、ソクラテスのほうが右翼になってしまう。さっきとは対立が逆転していることに気づいただろうか。どちらかというとソクラテスのほうがよっぽど他者への信頼を持っている。
超人vs俗人の対立という基本的な着眼点はよいのだが、出した例がうまく当てはまっていない。最後の映画の例で見る限りでは、本当に問題にしたいのは超人と俗人との間で起こる転移ではないだろうか。マイヨールはまだ十分に他者に転移できていなかったので、〈社会〉へと帰還する事ができなかったのではないのか。
ここで問題になっているのは明らかに精神分析における転移だ。そういえば、宮台真司の好きなJ・G・バラードの小説「ヴァーミリオン・サンズ*2はある意味で転移の天国だし、私の好きな萩尾望都の漫画「メッシュ」も転移ワールドだ。転移とは何か、分かりやすく言えば、ある人物への感情移入である。ただし、その感情移入は意識的に行なったことではなく(それは共感)、無意識の中から知らぬ間に立ち上がるものだ。精神分析においては分析者から患者への感情移入(転移)が安易に起こると治療の妨げになる。だから、分析者は転移をうまくコントロールする必要がある。分析者になるための教育分析は、そうした転移を克服するために行なわれる。それに対して、患者は分析者に転移してもかまわない、むしろその転移をてこにして治療が進められる。
これ以上書くと、宮台真司が次回以降で書こうとする事に重なってしまうかもしれないので、ここでやめておく。キーワードは転移だ。転移とは一体何なのか、どのようにして起こるのか、どういう役割を果たしているのか、それは避けるべきことなのか制御すべきことなのかそれとも…?
最後におまけの引用。参考にでもしてください。ニーチェ「権力への意思」からです。ちなみに、本当は新全集でないとダメということも分かってますが、素人は古い編集本の「権力への意思」でもしょうがないでしょ…。あぁ、打ち込むの疲れたぁ*3

ソクラテス以後のギリシア哲学者たちの出現はデカタンスの症候である。反ギリシア的本能が上位をしめる…
ソフィスト」はまだ全くギリシア的である--偉大なイオニア人であるアナクサゴラス、デモクリトスをふくめて、--しかし過渡的な形式として。ポリスは、その文化の無比性に寄せる信仰を、あらゆる他のポリスに対するその支配権に寄せる信仰を失う…文化が、言いかえれば「神々」が交換され、--そのさい土着の神の独占的特権によせる信仰が失われる。さまざまの起源をもった善悪が混合しあい、善と悪との間の限界は消滅する…これが「ソフィスト」である…
これに対して「哲学者」は反動である。彼は古い徳を欲するからである。彼は、堕落の根拠を制度の堕落のうちにみとめ、古い制度を欲する。--彼は堕落を権威の堕落のうちにみとめ、新しい権威をさがしもとめる(外国への、外国文学への、外来宗教への旅立ち…)。--彼は「ポリス」という概念が盛りをすぎてしまったのち、理想的ポリスを欲する(ほぼユダヤ人が、奴隷状態におちこんだのち、「民族」としておのれを維持したように)。彼らはあらゆる僭主に対して関心をいだく。彼らは不可抗力でもって徳を再建しようと欲するからである。

  • 筑摩文庫版ニーチェ全集「権力への意思 上」p.413(第427節から)

ニーチェ全集〈12〉権力への意志 上 (ちくま学芸文庫)

ニーチェ全集〈12〉権力への意志 上 (ちくま学芸文庫)

*1:ちなみに〈世界〉におけるというときの外側の括弧〈 〉は大文字という意味だと思う。つまり、〈世界〉とは「大文字の世界」のことである。大抵のラカンの翻訳ではそうなっているようだ。そうした翻訳本でもそうだけど、そういう約束事はきちんと明記してくれよ、と思う。普通分かんないって。私も英訳を見てはじめて気づいた。

*2:ちなみに、私は運のいい事に古本で手に入れられた。復刊のリストにはあったはずだが、しなかったはずだ。もったいない。

*3:引用中の「…」はすべて原文通りで、省略ではありません。一応