宮台真司のエリート主義

私自身は宮台真司のエリート主義(http://www.miyadai.com/index.php?itemid=383)には全面的には賛成できないけれど、言いたい事が分からなくもない。その点からあえて宮台真司を擁護してみよう。
資本主義や民主主義はその参加者に過剰な合理性を求める。(新)古典派経済学がその典型だ。しかし、認知科学の意思決定研究から発展した行動経済学では異なる考え方をする。人はそれほど合理的な判断など出来るのもではない。例えば、同じ確率で起きる選択肢であっても損害を強調されるとそうでないときよりもその選択肢を避けやすいとか、他にも選択肢があっても現状維持を選びやすいとか、そういう傾向が実証実験の成果から得られている。(新)古典派経済学において資本主義がうまくいくと主張する根拠は、すべての人々が合理的に行動すれば結果的に全体のバランスが取れるようになると言う考え方だ。行動経済学は人の合理性という仮定を否定している。だから、資本主義なんて放っておけば大丈夫みたいなネオリベの議論は当てにならない。
同じことが民主主義にも言える。確かに大勢の判断の方が特定人物(専門家など)の判断よりましな選択をするという研究結果もある。しかし、それは比較的に常識的なレベルの問題に限られる。より専門的で特殊な問題になるほど大勢の判断はむしろ信用できなくなる。純粋な資本主義が現実ではうまく働かないことがあるように、純粋な民主主義でも現実ではうまく働かないことがある。私たちには既に資本主義や民主主義以外の選択肢など残されていないが、だからといって資本主義や民主主義そのままでうまくいく訳ではない。そこには何かしらの修正による改築が必要となる。
ここまで見てもらえばエリート主義の必要性は分かってもらえただろうか。マトモな企業家や官僚や政治家が資本主義や民主主義の欠点を埋め合わせる必要は確かにある。ただ問題はそんなマトモな企業家や官僚や政治家が一体どこにいるのだって話になる。
ここで制度エリートと能力エリートを分けて考えた方がいい。制度上のエリートときちんと能力を持っている人物としてのエリートが一致するわけではない、例えば、古代ギリシア・ローマでは奴隷出身の哲学者や統治者が存在した。

社会制度を別にして実存的レベルでいえば、日々の経済的な生活実感やそれをもとにした嫉妬や怨嗟から無縁な者だけが公共善を体現できるというわけです。そうした実存を生き得れば、論理的には、奴隷でも公共善を体現できることになります。

過去の日本の教養主義というのは制度エリートになることを約束された人物が能力のない自分をごまかすためのツールとして働いていたという話もある(竹内洋高田里惠子の著作を参照)。日本で(頭がいいだけではない)能力を持った人が制度上のエリートになれるのは明治維新終戦直後のような混乱期にしか今のところ存在しない。ここで社会学マックス・ウェーバーの官僚制の話を参照できる。宮台真司の期待するエリートは特定の条件でのみ現われるカリスマでしかない。しかし、社会の発展と共にカリスマはいなくなり凡庸な官僚制へと移り変わる。だから、形式的な官僚制になるとその埋め合わせとしてカリスマを望むようになる。だが、彼がそれを望むのはそれが既に失われているからに過ぎない(たいていはノスタルジー。過去がよき時代だったと言うのは記憶の加工による幻想。そういうのは個人で勝手にやってくれ)。私はしょっちゅう思うのだが、宮台真司は社会の歴史的流れを理解しているとはあまり思えない(近代過渡期から近代成熟期への移り変わりの話はどこ行った?)。
というか、もし本気でエリート主義を実現させたいならそれを大勢に公開する必要はない。裏で勝手にやればいいだけの話で、それが報われるかどうかなど庶民には関係がない。それが本物のエリート主義ではないのか。宮台真司は戦略的マキャベリズムを主張するわりに何もかもを明かし過ぎて、何をしたいのかさっぱり分からないことが多い。あと、どうでもいいけど初期ギリシアにエリート主義などあったのか?初期ギリシアにあったのは冷徹な英雄主義であってエリート主義とはちょっと違うと思う(この話は長くなりそうなのでやめときます)。