やおい理解の基本文献「子供が叩かれる」

フロイトの論文「子供が叩かれる」。20世紀初めのヨーロッパで書かれた論考にもかかわらず、日本のオタクやヤオイの理解にとても役立つ。この論文では男性と女性が空想する「子供が叩かれる」という幻想を比較している。日本と欧州という異なる文化にもかかわらず、その類似に驚くはずである。男と女の違いを固定化する本質主義の危険性は確かにあるが、性差の違いを完全に除去することは不毛である。重要なのは、いかにして差異を位置づけるかである。この論考は、そのための序論でしかない。
この論文で、フロイト精神分析患者の「子供が叩かれる」という空想を分析している。子供が叩かれるという空想は男女ともに見られるが、この空想には男女で違いがある。まず、その空想だけを取り出してみてみよう。
女性の空想をフロイトは三段階に分けているが、その中できちんと意識されるもっと強い空想は最終段階である。その典型は、「少年が大人の男性に叩かれる」というものだ。患者はその幻想を「ただ眺めているだけ」である。このとき、その空想に現れる少年や大人の男性は漠然として誰か分からないことが多い。叩く方の大人の男性は教師などの典型的な父親系列であることもある。原則として、叩かれる少年は一人ではなく多数である。叩く以外にも、様々な罰や辱めがある。そして、こうした空想は強い性的興奮を伴っているという。分かってしまった人もいると思うが、このような空想は日本のやおいにそっくりである。典型的ではないかもしれないが、このようなSM的な空想は日本のやおいにはよくある。少女漫画の例で挙げると、竹宮恵子風と木の詩」とか萩尾望都残酷な神が支配する」などがある。日本と欧州という異なる文化でこのような一致が見られるのはとても興味深い。
この空想をフロイトエディプス・コンプレックスで説明している。しかし、その説明には無理がある。その解釈にとって重要な第二段階の空想は実際に存在しないからである。フロイトは意識されないだけと言っているが、この論文を読む限りでは、その根拠は示されていない。これはエディプス・コンプレックスを導入したいフロイトの我田引水といえる。フロイトは実際に存在しない空想を分析のために勝手に導入している。しかし、このことでフロイトを攻めてはいけない。この論文を最後まで読めば、フロイト自身の意見も曖昧であることが分かる。この論文のフロイトにとってエディプス・コンプレックスは仮説でしかない。
というわけで、女性のこの空想が「父親に愛されたい」という願望の表れである、という分析は眉に唾をつけて読んだほうがよい。その分析を導くはずの第二段階の空想、父親に私が叩かれるという空想、はそもそも存在しない。その空想が抑圧されたという証拠もあいまいだ。受け入れられるのはせいぜい、それが女性の「男性性コンプレックス」の表れであることぐらいだろうか(もちろん、これは社会的なもの)。細かい分析は実際に論文を読んで判断してもらうしかないが、たとえその分析が怪しかろうと、フロイトの論文の価値にはかかわりがない。こんな興味深い論文など他にありえない。
さて、男性の空想の方はというと、少年が母親に叩かれるという空想である。その少年は空想している本人なので、正確には「ぼくがお母さんに叩かれる」である。これは男性のマゾヒズムであり、この論文に限らずフロイトはあちこちで取り上げている。ここでも、フロイトは「ぼくがお父さんに叩かれる」という抑圧されたらしいありもしない空想を導入している。これもエディプス・コンプレックスの導入のためであり、あまり本気で受け取る必要はないと思われる。日本で、父親にそんなに強い潜在的感情を抱いている人が多いとは思えない。そんな分析を無視しても、ここで挙げられている空想が、日本の男性向けSMの内容にあまりに近いことには変わりがない。罰する母親の代わりに、SMの女王様でも持ってくればいいだけである。ここでも、文化の違いにかかわらず、その一致が大きいのに驚く。
この論文の最後で、この空想を二つの理論、フリースの理論とアドラーの理論と、からの分析をしている。興味深い分析ではあるが、その内容は省略する。その分析の結果は、どちらも満足する説明ができないということになる。フロイト本人はエディプス・コンプレックスによって説明できたと思っているが、その態度はあくまで謙虚だ。これを読む私たちも、特定の説明を強引に受け入れるのではなく、その説明の有効性を考えるという謙虚な態度をとる必要がある。この論文は、性差を考えるための入り口に過ぎない。

自我論集 (ちくま学芸文庫)

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