宮台真司にかこつけてプラトン話をする

何だか宮台真司すごいです(http://www.miyadai.com/index.php?itemid=317)。以前の安易に逆説に頼る語りよりはよくなっているが、話が複雑で中身が濃くなってきている。私個人としては歓迎するが。初期/後期ロマン派問題は私も興味を持っていた(ちなみに私自身が好んで読むのは古本で買ったK.レーヴィットヘーゲルからニーチェへⅠ」だ)。といっても、過去の例から見ても、いつまでこの高レベルを保てるかも怪しいのだが。
今回は中身の読解はしません。丁寧に読めば分かるようになっていると思います、ややこしいのも確かだが。ようするに、「あえて」社会の中で汚れて生きろってことだろ。問題はどう汚れて生きるのかだったりもするが、そこは問わないでおこう。そういうのは次回以降のお楽しみにして、ここではちょっとした指摘をしてみたいと思う。
宮台真司は「後期プラトン」と言う言葉を使っているが、彼がこの言葉を使うときは、イデアや哲人王など敢えて「規定されたもの」を推奨し始めるプラトン、つまり「国家」に代表されるプラトンを指しているようだ。でもこの書き方は誤解を与える。普通プラトンは初期・中期・後期の三つに時期に分ける(例えば、斉藤忍隋「プラトンisbn:4061592742)。いわゆる有名なイデア説をとった「国家」に代表される最盛期のプラトンはこの分類では中期にあたる。それに対して、晩年のプラトンに当たる後期は「テアイテトス」などに代表される。しかも、この後期のプラトンイデア説を放棄したとされる説さえある。ややこしい。宮台真司は教養もあって博学なのだが、たまにこういうことをする。概説書を一冊でも読めば済む話だ。

後期プラトンについて

ハイデガー存在と時間」の冒頭はプラトンソピステス」からの引用で始まる(isbn:4480081372)。「ソピステス」はプラトン後期の作品だ(もちろん既存の分類で、以下も同じ。ちなみに、私は「ソピステス」は断片的にしか知らないので、以下で怪しいと思う所は自分で確かめて欲しい。「ソピステス」は全集版にしかないので今の私には読めない)。ハイデガーの引用する文章では存在への問いが言及されている。それにしても「ソピステス」とはどんな作品か。私もこの作品には興味があるが、それは存在論への興味からではない。どちらかと言うと認識論への興味からだ。「テアイテトス」を文庫本で読んだのだが、話が結論にたどり着かないのでイライラしていたところ、これには「ソピステス」という続きがあるという。「ソピステス」は普通は論理学に関する著作だとされる。論理学と認識論となら関係がありそうだが、存在論とは関係がなさそうに思える。なぜハイデガーによって引用されたのか。
そもそも古代ギリシアには存在論と認識論の違いなどなかった。そんなものは近代になってから作られた分類に過ぎない。ハイデガーの若い頃は新カント派が主流で、認識論全盛だった。ハイデガー存在論なんて言い出したのはそういう中での反抗でもあったともいえる。とはいえ、いくら一生懸命に「存在と時間」を読んでも存在論について知ることは出来ない。なぜなら、その肝心の部分は書かれずに未完に終わったのだから。それはさておき、存在論と認識論の違いとはなんだろうか。直感的に違いがあるのは分かるのだが、私にもよく分からない。この話はややこしそうなのであまり突っ込まないでおく。はっきりといえるのは、カントの批判哲学以降にそれが起こったこと、つまり主観と客観との分離から生じていることである。ヘーゲルの哲学もこうした点から理解される必要がある。でも、古代ギリシアにはそんな違いはなかった。
ソピステス」で問題になるのは「ある」と「あらぬ」の問題だ(以下は斉藤忍隋「プラトンisbn:4061592742)。本格的に述べるとややこしいのでかなり簡略化すると、目の前のあることと一致するときが真に「ある」のであり、次々と流れ去っていく感覚は「なる」であり「あらぬ」のと同じだ。感覚がなければ「ある」とはいえないが、感覚とは常に「なる」ものである。こうして「ある」と「なる」の関係が問題にされる。ここではイデア的な「ある」が疑問に付されている。実際はもっとややこしい議論をしているようだが、ようするに確実なるものとしての「イデア」=「ある」に懐疑的ではあるがだからといって捨て去るわけでもない。こうしてそれまでは比較的素朴に考えられていた「ある」が揺れ動いているのが分かる。
ではこれを解決する道はないのか。実は無きにしも非ずだ、満足行く解答かどうかは別にしても。それはアリストテレスの中にあるだろう。どれって言われても、そこまで言う気はない。少しは自分で探してくれ。ところで、デリダエクリチュールの概念はもっと多義的な意味を持つので、単に「書かれたもの」という意味ではないと思う。宮台真司は別にエクリチュールという言葉を無理に使う必要はないのではないかと思うのだが。論旨の上でも必要ないと思うし。それから、ニーチェの発狂は(たぶん)梅毒のせいであって、あまり余計な意味は持たせない方がいいと思う。