ベンヤミンとニーチェとの微妙な関係

ベンヤミン話を少しだけ。宮台真司ベンヤミンに限らず、いつも分かりやすい説明をしてくれるのに感心する(「尊敬する中平卓馬に言及した文章をアップします」 http://www.miyadai.com/index.php?itemid=336←これに比べて某文芸雑誌に連載の北田氏によるベンヤミン論のヘボなこと)。私はベンヤミンを理解してるとはとてもじゃないが言えないが、ちょっと思ったことがあったので言及しておきます。
ベンヤミンの「ドイツ悲劇の根源」はニーチェ悲劇の誕生」との対比関係で理解するのがいいと思う。実際にベンヤミンは「悲劇の誕生」の愛読者で、この著作への疑問から「ドイツ悲劇の根源」が生まれたと言える。ベンヤミンニーチェとの関係は私自身は良く理解できないでいたのだが、この文章を読んでちょっとした理解のための方法を思いついた。それを書くことにします。
ベンヤミンのシンボルとアレゴリーの違いについての宮台さんの理解はとても分かりやすい。シンボル=(社会での)意味、アレゴリー=寓意。アレゴリーとはもともとある(社会的)建築物をバラバラにしてその砕け散った瓦礫を偶然的に結びつけるということらしい。例えば、事件を理解するときに既存の物語によって理解せずに一度要素*1までバラバラにして組み立てなおして理解する、みたいな感じだろうか(本田由紀ニート論みたいかな?ニートを怠け者論という既存の物語ではなく、要素をバラバラにして一から個別にニート(?もうすでにいらない概念?)を理解するみたいな)。ここまでが前期中平。そこで、やっぱアレゴリーでもダメだ、となると後期中平になる。でも、ニーチェベンヤミンとの関係となると順番が逆だ。
ニーチェがアポロからディオニュソスへと向かったのに対して、ベンヤミンはその手前に留まってシンボルからアレゴリーへと向かったんじゃないのか(ちなみにアポロとシンボルは一致しない。むしろアポロにはシンボルとアレゴリーの中間ぐらいを想定した方がいいと思う)。ようするに純粋なディオニュソスっていうのはあまりに危険すぎるってことだ(つまり「現に中平は〈社会〉に居られなくなった」こと)。だからこそ、今度はアレゴリーが必要とされるのだが、残念ながら(少なくとも日本には)これを理解してる人はほとんどいるようには思えない。
で、さらに話を先に進める。アレゴリーはシンボルとは異なり複数のあり方を同時に許す(ディオニュソスにはそもそもあり方がない?)。だから、『「現実=イメージ」の同期クロックとは異なるクロックを働かせる実践を各所でゲリラ的に展開すべし』という話になる。このあたりは中村雄二郎のリズム論あたりを想起させる(これ自体はそれほど満足できる論ではないが)。アレゴリーによって複数の異なるリズム(クロック)を働かせよ。ベンヤミンアレゴリーについて語っている「ドイツ悲劇の根源」での題材はバロック悲劇であり、これはそのままバロックオペラにつながる。複数のリズムというのは、バロック時代の音楽の対位法を例に出すと理解しやすいだろう。古典派の音楽とは違って、バロック音楽では異なる複数の旋律が同時に演奏されている*2。あなた一人では単純でつまらない旋律でもうまく他の旋律と重なるとえもいわれぬ素晴らしい音楽に仕上がる。単に「他者」とか言ってるよりはよっぽど可能性がある論だ。私が宮台さんに今後この方向での論の展開をさらに期待するのは僭越だろうか?*3

*1:「要素」と書くと唯一の分け方があるように聞こえるのであまりよくないが、この方が分かりやすいと思うのでとりあえず

*2:より正確にはバロック期には対位法はすでに古い技法だったのだが、話の流れから余計な話はしない。別に西洋音楽史の話をしてるわけじゃない

*3:あとは勝手にしゃべっておく。通常の人は世の中はシンボルで出来上がっていると思っているし、そのように教えられる。しかし、現実はそのようには出来上がってはいない。それを示すのがアレゴリーディオニュソスだ。しかし、これらも別々にあるのではない。アレゴリーディオニュソスも、(表面的な)世の中のシンボル的回転の基盤となっているのだ。近代社会はそれをますます見えなくする装置のようなものだ(そういう装置でない歴史観を知りたければブローデルを読めばよい)。ディオニュソスについてはこのままではもう問いようがないので、あとはアレゴリー(複数のリズム)に関する考え方(理論)がほしいところだ。たとえほとんど誰も理解できないとしても私は欲しいと思っている。これに関しては私にも意見が無きにしも非ずだがここではやめておく。