晩年のフーコーってさっぱり理解されないよな〜

歴史家としてのフーコー http://cruel.org/other/foucault.html
フーコー批判の翻訳。こんなのを訳して公開しちゃうんだから山形さんってすごい。実はフーコーの歴史的資料の扱いがぞんざいなのは結構有名。それをついた議論としては見事。まぁ、そもそもフーコーは狂気や権力に関する問いを提出したのが偉いのであって、細かく説明の不備をつついても根本的な批判にならない、と言えばその通りであろうが。フーコー歴史観の矛盾を突いても虚しいだけかも(匹敵するのを自分で書けばぁ〜)。でもまあ、前期(「狂気の歴史」から「言葉と物」まで)から後期(「監獄の誕生」前後)までは批判としてよく出来ているのでいいとしよう。でも「性の歴史 第二巻」以降の晩年はお話にならない。そもそも晩年のフーコーは未だに理解さえろくにされていないのだから当たり前とも言える(批判以前)。具体的につつくと。

確かに貴族には同性愛の伝統があったようではあるが、それはいつの時代も、ごく少数のエリート的なマイノリティでしかなかった。

だからそれこそがフーコーが言おうとしてることだろ。批判することばかりが先走りしてて、読解力なさすぎ。

だが、その関係に同性愛的な性交が伴うなどというのは、あらゆる人にとっては考えるだにおぞましいことだったということをソーントンは示す。

フーコーが一体いつ古代ギリシアの同性愛には性交が不可欠だって言ってるの。頭おかしいんじゃないの?

受け身のホモ、つまり肛門を刺し貫かれる男性は、「恥」と「怒り」をもって見られていた。

ましてや古代ギリシアはアナルセックスが正常だったなんてどこに書いてあるちゅーんだ。アホかよく読め。攻めと受けの違いもきちんと説明されてるだろが、ボケ。一応言っとくが、攻めと受けっても実際に性交をすることを意味してるのではなく、互いの関係としての話だ。尊敬されるべき成年男性がまだ出来上がっていない男の子を可愛がる、程度の意味じゃんか。

フーコーの解釈――古代ギリシャの一部の男性はホモだったから、人類の性的嗜好はすべて両性的なのだという解釈――は論理としていい加減だというだけでなく、ソクラテスが生涯をかけて維持しようとした理由づけに対する冒涜でしかない

おまえの言うことの方がよっぽどフーコーの著作を傷つけてるよ。フーコーが同性愛者だという先入観がありすぎ。フーコーの書き方がはっきりしないのは認めるが、おまえの読み方は俗っぽすぎてお話にならない。古代ギリシアの同性愛っても高貴なのと安っぽいのとがあることぐらい理解しろ。フーコーが描こうとしたのはある種のエリート主義であって、それを踏まえての批判ならいくらでも受け付けます。
以上、ちょっと口汚く罵りすぎましたが、晩年のフーコーへの無理解にうんざりしてたのでそれへのストレス解消だと思って大目に見てください。でも、今の日本の猫も杓子も生権力(これは後期フーコー)ってのはどうかと思う。