どうでもいい評論風の書き散らし

勝手にいろいろと前提にして説明を省いて書いているので、訳が分からなくともあなたのせいではありません

日本で全体性を目指す教養的試みがあまりに見られないのはまずい…??

歴史の不在と中間項の不在

現在の日本の論議でよく見られるように思える特徴は、歴史の不在と中間項の不在だ。
日本では(西洋か東洋かに限らず)歴史について語られること自体が少ない上に、たとえ語られていたとしても、物語化された歴史かあからさまに作られた歴史かのどらちかばかりが目立つ。まともな歴史的分析を目にすることはめったにない。全体性うんぬんなんて話をする以前に、まともな歴史への参照を訴える方が先じゃないのか。歴史抜きの全体性への言及に何の意義があるのかよく分からない。「今ここ」に縛られた思考から抜け出すのが全体性への言及の目的のはずじゃないのか。
未だに、大きな物語か小さい物語かなんて話をしている人がいるけど、そんな話はマルクス主義への思いがまだ残っていた冷戦終結直後なら意味があったかもしれないが、そうでもない今にそんな話を持ち出す意義が全く分からない。というか、そもそも大きな物語か小さい物語かなんて二項対立そのものに問題があるじゃないのか。ここには社会のような中間項は存在しない。こうした二項対立こそがセカイ系ネオリベ論の源なんじゃないのか。ちなみに、理想的な社会性のようなものを持ち出す論は大きな物語スレスレで危ない。規範的な社会性概念と記述的(説明的)な社会性概念は分けて考えるのをお薦めします。

教養概念と全体性

現在用いられている教養概念はロマン主義*1あたりに源があるのであって、それ以上に遡るものではない。例えば、ルネサンス時代にはキケロが重要視されていたけれど、19世紀以降から今まででキケロが教養として重要だなんて話は聞いたことがない*2
現在でも残っている教養概念はゲーテヘーゲルあたりに端を発するロマン主義的な教養であって、全体性との関わりもこれに注目しないと訳が分からない。ロマン主義的な全体性概念には不可能性があらかじめ含まれている。全体へと向かう志向が重要なのであって、文字通りの全体への到達が不可能なのは当たり前であり、そんなことを指摘しても批判にならない(逆に言えば、あれがないこれがないタイプの批判は切りがないので不毛)。ちなみに、へーゲルの相対的不可能性とキルケゴールの絶対的不可能性とで違いがあるが、ここでそこまでは踏み込まない。
もう一つ重要なのは、教養にとっての全体性とは世間的な意味での網羅的な全体性などでは決してないことだ。網羅的なとは、初めに要素があって各要素を集めれば全体にたどり着くとする考え方だ。これは教養的な全体性の考え方とは異なる。むしろ逆に、全体を先に想定してそこから要素を見出すタイプの方が相応しいぐらいだ。要素が先か全体が先かなんて議論は不毛なのでする必要はないが、少なくとも単に要素を集めれば全体にたどり着くとする網羅的な全体性の考え方はこの場合は見当違いだ。(弁証法を持ち出すと訳が分からなくなるので)せめて要素間の関係に全体を見出すシステム的な全体性でも想定しないとしょうがない。

教養としてのシステム的な思考?

システム的な考え方は近代的エピステーメーの行き着いた先でもあり、一般には批判どころか理解さえろくにされていない。認知的モジュール論であれネオダーウィズム論であれネオリベラリズム論であれ、システム的な考え方を前提にしてもらわないとまともな議論を始めることさえできない。問題は(批判を含めて)どうシステムを扱えばいいのかなのに、その出発点にさえ立っていないことが多い。おそらく全体性という言い方が誤解を招くので、これをやめて丁寧に説明するしか道がない。
どうせ日本で教養を持っている人なんて若い人どころか年が上の人で探してもめったにいやしないのだから、もうどうでもいい気がする。教養や全体性うんぬん以前に、日本にはサイエンスライターのような(専門家と素人を結ぶ)媒介的存在があまりに少ないことの方がよっぽど困る。専門バカって悪口はあるけれど、ろくに調べもせずに好き勝手に何でも語る総合バカの方が日本には多くてよっぽど害悪な気もする。今の日本に欠けているのは無知の知のようなタイプの知的謙虚さであるように思えるのは気のせいだろうか。

*1:さらに遡ってもせいぜい啓蒙主義。カントのすべての他者の立場に身を置くなんて考え方はすでに教養の匂いがする

*2:個人的には、教養って言うと古代の古典が相応しいと思うが、たぶん他の人はそう思ってくれないので、これについては何も語りません