ミーム概念への妥当な理解と脳科学の社会化

私はミームという概念に感心したことはない。何が納得いかないって、進化からの類推で考えると、何が伝えられて何が淘汰されるのかその単位がはっきりしない。進化論の場合は、遺伝子(ジーン)が子(社会生物学によれば親類も含む)に伝えられて(もちろん突然変異もある)その動物の形態や行動として表れてその結果として淘汰がなされる、という過程がはっきりとしていて分かりやすい。ここでは遺伝子(ジーン)という単位が存在することで見事に納得の行く過程に仕上がっている(でなければ、後天的能力が子に伝えられるというラマルク主義と区別がつかない)。しかし、ミ−ムの場合はそうではない。定義の参考として以下のサイトを挙げておこう→ミーム - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%A0やMEMETICS http://www.es.dis.titech.ac.jp/~park/book/meme.html。文化が模倣によって伝えられて残ったり残らなかったりするという考え方は分かるが、納得できる形の理論にはなっていない。もう少し詳しいサイトとしては「ミーム:心を操るウイルス リチャード・ブロディ」http://www.geocities.co.jp/HeartLand/2989/meme.htmlがあるが、やっぱりあまり納得いかない。もうちょっと心理学や社会学歴史学に生かせるようなきちんとした理論にはならないだろうか。

ミーム論を科学的な論にする

私の手元には「マインンズ・アイ」ぐらいしか参考になるのがないので、そこからリチャード・ドーキンスの書いた第10章の「利己的な遺伝子と利己的な模伝子」を引用してみたいと思います。もとの文章は著書「利己的な遺伝子」にあります。そのまま引用してしてますが、ちょっと古い翻訳なのでミームが模伝子と訳されています*1

しかし、もしあなたが世界の文化に寄与するなら、たとえばあなたが良い考えをもつなら、作曲をするなら、点火プラグを発明するなら、詩を書くなら、それは、あなたの遺伝子が共同のプールに溶解してしまったはるか後までも、損なわれることなく生き続けられるかもしれない。(…中略…)ソクラテスレオナルド・ダ・ヴィンチ、マルコーニなどの模伝子の方は、今なお強大なまま生き続けているのある。

これがドーキンス本人によるミームの解説。どうも物である作品や著作や製品としてのミームを想定しているようだ。あまり納得がいかない。むしろ残された作品や著作や製品を用いる人間の行動に注目しないとしょうがないと思う。例えば、読まれなければ著作は意味がない。使い方の分からない道具に価値はあるのか。同じく同書からの引用。

私の同僚のN.K.ハンフリーがこの章の初期の草稿をいみじくも次のように要約している。「……模伝子は、比喩的にではなく学問的に言って、生きている構造とみなされあるべきである。あなたが実り豊かな模伝子を私の心に植えつける時、あなたは文字通り私の脳に寄生するのであり、ウイルスが宿主細胞の遺伝機構に寄生するのと同じやり方で、私の脳をその模伝子の繁殖のための媒体にしてしまうのである。これは単なる言葉の綾ではない。たとえば、『死後の生命の信仰』という模伝子は、世界中の人々の神経系の中の構造として何百回も繰り返して、実際に物質的な形で実現されているのである。」

このミームの解説はおそらくニコラス・ハンフリーによるものでしょう。ドーキンスの理解とはけっこう違っていることにお気づきでしょうか。単なるアイデアにすぎないドーキンスの定義より脳を持ち出すハンフリーの方が納得がいく。これで抽象的な概念でしかないミームから、遺伝子と同じように物質的である脳(ニューロン)を単位にして考えることができる。つまり、遺伝子が伝えられて形態(行動)が表れるように、行動(信念?)が伝えられて脳に刻まれると考えればよい。そのとき伝えられた脳(ニューロン)のあり方をとりあえず(脳内)ミームと呼ぼう(本当はこの時点でミームとは呼ばない方がいいかもしれない。ここで説明しているのは広義の文化が伝えられる過程だ)。これを基礎におけば科学的にも検証可能な理論へと成長させることが出来る。ここで注意すべきは、ジーンとミームでは伝えられ方が全く違うことだ。図式的に書くと「ジーン→行動」と「行動→ミーム」とになる(もちろん行動だけではないが簡略)。つまり、ミームが直接伝えられる過程は考えられない。あくまで外に表れた行動を媒介して他者にミームが伝えられる(子だけではないのでここはラマルク主義とは違う)。*2
こう考えたとき、もちろんミームは実体として脳の中に存在してるとはいえない。とはいえ、ジーン(遺伝子)だって別に形態や行動に対してきれいに一対一とかで対応関係を持っているわけではないので問題はない。本当の問題は、(突然変異はあれど)ジーン(遺伝子)はそのままの形で伝えられるのに、脳内ミームは間接的にしか伝えられないので、全く同じ形の脳内ミームを伝えることは出来ない(正確には同じ形を保障できない。同じである可能性はある)*3。であとは、ミームから表れた行動や文化が(歴史上の)淘汰の過程で残ったり残らなかったりすればよい*4ミームでは突然変異の変わりに、個人における創造や発明が存在すればよい。新しい創造や発明がどう起こるかなんて後から考えればよい。どうせ脳内で起こっていることだ。調べようがある。

脳科学の社会化に向かって

一番重要なのは「ジーン→行動」と「行動→ミーム」という非対称性だろう。これで私には納得だ(他の人は知らん)。で、何でこんなことを長々と話したかと言うと、私は今の脳科学が生物学寄りの議論に偏っていると思っているからだ。同じように人間を扱っているのだから、社会科学も人間の脳に関係した議論をすることはできるはずだと思っている。いい加減に何でもありの社会構築主義はやめにしたほうがいい。非科学的この上ない。しかし、一方で脳科学の話もあまりに偏っていると思う。ミーム話といい進化心理学といい、ちょっと現実や社会への応用話に走ると、あまりに社会科学の視点からは甘っちょろい話が多すぎる。私は認知科学の中でも社会科学寄りの議論を知っているだけに苦々しく思っている。社会科学系の人たちは認知科学に興味がなさ過ぎる。「生命科学vs社会科学」の対立は認知科学の内側にすでにあるというのに、少しは擁護してくれよ。
というわけで、「脳科学の社会化」の話になる。脳の可塑性って話はある。でもそこでは、社会や文化による脳の可塑性が語られることは少ない。歴史って言うのは脳の可塑性を基礎にした学習と創造によって進んでいるのと違うのか。つまり、ある文化の中で学習された行動や考え方(とそれを打ち破る創造や発明)によって人は歴史を作り上げているのではないのか。そう考えれば、いままでの社会科学の成果との折り合いはつきやすい。あとは相互につき合わせて何かが生まれてくれば一番いいのだが。
もちろん理論は必要だ。G.H.ミードやヴィゴツキーも神経系や個体発生の話をしてるし、最近だとトマセロが社会プラグマティズムに則っているらしいし、文化心理学寄りの実証研究もあるし、認知科学内にも材料はいろいろある。いい加減そういう話をしてもいい頃じゃないかと思う。実際の脳研究となると技術的問題とかもあって難しいかもしれないが、話だけならできる(将来の用意として)。いい加減に話を先に進めよう。

*1:その後ドーキンス利己的な遺伝子 第三版」を手にする機会があったが、面倒なので引用は元のままにする。ちなみに「利己的な遺伝子」版の方が「マインンズ・アイ」版より文章が長くなっている

*2:もちろんミームは遺伝的に可能な範囲で起こる。犬に言語を教えることは出来ないし、人が道具も機械もなしに空を飛ぶことも出来ない。おそらく私たち自身は自分の遺伝的可能性の範囲を正確に知ることは出来ない。試しにやるしかないところもあると思う。

*3:ミームを伝える過程を模倣と考えてミラー・ニューロンと結びつけるという論も可能だ。しかし語れるほど実証的に何か分かっているとは思えない。私自身は文化を伝える過程は単純な模倣じゃねぇだろと思っている。このブログにあるG.H.ミードの翻訳も参照

*4:淘汰だけでなく棲み分けによる共存も考慮に入れるべきだろう。それから、けっして社会ダーウィズムと混同しないように、全然違います